ドリーン・バーチュー博士公認エンジェルセラピープラクティショナー(R)の千鶴が、天使からのメッセージをお届けします。エンジェルリーディングのセッション等については、私のHPをご覧ください♪


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”思い出す”


今日はちょっと真面目なお話を・・・。

私たち人間は「自分」の仕掛けた罠にはまる時があります。
これには私自身も随分苦しみました。
そして、ここでストップしそうになる時がたまにあるのです。
なかなか手ごわい「罠」ではありますが、正体を知れば攻略することはできます。

その「罠」とは一体何なのか。
今回はおそらく一番わかりやすい例として「願望実現」の際によく見られる
側面を使って説明したいと思います。

大ヒットした『ザ・シークレット』には、何か願望を叶えたい時は
「お願いする・信じる・受け取る」をしましょうと書いてあります。
もう今では、これはかなり使い古された表現になっているかもしれません。

『マーフィー』も『引き寄せの法則』も結局は同じようなことが書いてあります。
そしてドリーンが著書でも
「お願いごとをしたら信用して待ち、ちゃんと受け取りましょう」
と述べています。

そして天使がドリーンの口を借りて何度も言っているのは
「恐れを手放しましょう」ということです。
そのために私達に助けをお願いして!と。

何かの「願望を叶えること」それと「恐れを手放すこと」

この二つはコインの表と裏のようなもので切っても切り離せない関係なのです。
むしろ切り離して考えることは不可能です。

そして
どうやったらうまくお願いできるのか、どうやったら信じられるのか・・・。
そういったご質問をセッションで受ける場合もあります。

でも実は人間は、生まれた時からずっと、ちゃんと自分のことは
「お願い」したり「信じたり」できているのではないかなと私は考えています。
それが例えば「望まないこと」だとしても、そのことをずっと長いこと
自分の中で抱えていれば、それはまるで「信念」のようになってしまっていて
それが実現するのです。

「幸せになりたい」「健康でいたい」「お金持ちになりたい」「完璧な伴侶が欲しい」
例え漠然としていても、必ず何かの望みは自分で持っていて、そのことを
考えていたり、そうなりたいと強く願うこともあるはずです。

でも、それがたとえ「望まないこと」だったとしても、ずっと考えていれば
そこから出なければ、そちらが実現されるのです。
つまり望まないことを考え続けることによって、「望まないこと」を
「望んでいること」になるのです。
そして、宇宙は「強い感情、信念」に反応するのです。

例えば、自分は不幸な恵まれない境遇だ、容姿に自信がないからモテない、
不況だから仕事がない、年を取ったら体にはガタが出てくるものだ、
自分の学歴では立派な仕事にはつけない、親に愛されなかったから人を愛せない。

これらは「望まないこと」ではあるとは思いますが、こういった何かのきっかけで
長年持ちつづけることになった思考は、
まるでその人の信念になってしまったように
その人自身を常にある一定の場所に縛りつけます。
とても自然に、とても普通に。
縛られている不自由ささえも、いつの間にかスタンダードになっています。

だから本人でさえ、そのことに気がつかないことも多いのです。
「そこの場所」から常に物事を考えて、判断してしまうからです。
その枠から出ることは、ちゃんと意識していないとなかなか難しいでしょう。
なぜなら、それがもう癖になっているからです。
自動的にやっていることだからです。
でも、そこにはとても重大な問題があります。

それは「不足」からは「不足」しか生まれない、ということです。

「〇〇がないから、△△が欲しい!」とお願いすれば、
〇〇がない、と言った時の感情の方が強いですし、
それは長年持ちつづければ、まるで「信念」のようになっているでしょう。
だから、それを考えたり口にすることは本人も気がつかないくらい
の当たり前のことなので、癖になっているのです。
それをちゃんと「意識して」変えなければ、昨日までと同じことを
人間は惰性で繰り返します。
癖とはそういうことです。
良いとか、悪いでありません。
ただの「あるパターン」が身に付いている、というだけのことです。
この場合は「ある思考のパターン」です。

でも、宇宙は常に公平です。
ノージャッジです。
だから、強く感情がこもった方に反応します。
良いか悪いかを決めているのは人間だけです。
宇宙は判断しません。

だから「不足」は「不足」を生み出すのです。

先ほどの『ザ・シークレット』の願望実現のプロセスで説明すると
「お金がないから、そうだと困るから、怖いから、お金が欲しい!」と
ずっと追い立てられたように
【願い】続けていたとしましょう。
そうすると強い感情の方「お金がないから困る、怖い」に宇宙は反応するのです。
さらに「お金がないから、困るから」の状態が長く続いたために、あるいは、
そのことが強烈な恐怖や苦しみの原因だったために「不足」している状態を
【信じて】しまっています。

そして最後に、その不足している状況に慣れてしまっているから
その不足した状況をただ漠然と【受け取って】しまうのです。

こうやって、常に不足のサイクルが繰り返されます。
何かが変化してうまくいきそうになっても、「不足」の信念が強ければ
自分でよほど意識して転換しようとしない限りは、ほとんど自動的に「不足」の状況を
自分から造り出して、さらに自分で自分を縛ってしまいます。
自らその場所に、戻って行ってしまうのです。
誰かの力で戻されるのではなく(そんなことは不可能です)
自ら戻って行ってしまうのです。
誰にも止めることはできません。
私たちには「自由意志」が保障されているのですから・・・。
これが「不足」が「不足」を生み出す、というプロセスです。

大きな「罠」にはまっているから、このサイクルを続けてしまうのです。
では、その罠を別の視点から眺めてみましょう。

私たちはすでに様々なことを願っているし、信じているのだ、と書きました。
先ほどの例は、「不足」に重点を置いた例でした。

きっとこのブログを読んでいらっしゃる皆さんは、すでにこれ位のことは
ご存知で気をつけていて、生活に活かしていらっしゃるのではと思います。
つまり「望むことを望み、それを信じて、受け取る」ということです。
望まないことに関心を置かないようにすることとも言えます。

それでも、あえて「罠がある」、と私が言うのはどこの部分なんでしょう。
もしかすると、人類の課題なのかも、とさえ思ってしまうことなのです。
そしてこちらのパターンの方が、前出のより巧妙で、静かで、わかりにくいので
非常にやっかいなのです。

私たちはいろいろなことを願います。
そしてそれが実現するように心から願います。
なるべく鮮明にイメージをふくらませて、すでに自分がその状態にあるかのように
楽しみつつ願うことができます。
でも実現しない・・・。

それは最後の肝心な「受け取ること」をしないからなのです。
「受け取ることを認めない」と言う言い方もできます。
それが「罠」なのです。

つまり私たちは、その自分の仕掛けた「罠」にはまって身動きできないでいる
ことがとても多いのです。
その自ら仕掛けた罠のために願望が実現しない(しているのに気がつかない)
のを、そのことにさえ気がつかないで
どんどんエネルギーを消耗し、果ては願うことさえ無駄に思えて
天を仰いでこう思います
「ああ、やっぱりだめだった」と。

宇宙は偉大です。
無限で永遠で不可能はありません。
それを神様とか創造主とか、根源的な存在、源(ソース)と呼んでもいいでしょう。

だから願いを叶えることは、水が高いところから低いところへ流れるように
当然で自然なことなのです。
そしてそれは、とりもなおさず私たち一人一人が、例外なく神聖で、永遠で
無限の存在だということなのです。

その私たちが望むことが実現されないわけはありません。
そんなことがあるとしたら、私たち自身がそれを自ら阻んでいるということになるのです。
つまり「受け取っていない」のです。

それが、私の言う「やっかいなパターンの罠」なのです。

「願いはすでに叶っているのに受け取っていない、受け取ることを自らに認めない」
のです。
「受け取らない、受け取ることを認めない」
そのことは誰もが一番後回しに考えてしまいがちなことなのです。
「お願いすること、信じること」
に一生懸命過ぎてしまい、実は受け取ることがとても大切なのに
そのことを忘れているのに気がつかないのです。
もしくは「受け取ることを楽しみにしていて」も、
実際に本当の意味で「受け取っている」かというと、
実はそうでもなかったりもするのです。
もしかすると「頭」で考えて、受け取ったつもりになっているだけ
ということだってあるのです。
こうなると非常に厄介ですね。
でもとてもよくあることだと思います。
つまり「受け取っても良い、受け取る価値が自分にはある」と
頭では十分わかっているのに、気持ちの方がついてきていない場合です。
「受け取らない、受け取れない理由」を探して、見つけている時がそうです。
だから、この「罠」が「自分で」しかけた「最大の罠」になってしまっているのです。

ではどうして、そんなことをしてしまうのでしょう。

それは先ほど、コインの表と裏、と言う例えで
「願望をかなえる」ことと「恐れを手放す」ことはセットになっている、と書きました。
まさにここなのです。

実は、私たちは「恐れ」があるために最後の最後で「受け取る」ことを自ら拒否しているのです。
たぶん、お願いの仕方が間違っているとか、信じられないからダメだったとか
そういう理由で願望が実現されなかったケースよりも、もっともっと膨大な数の
美しい願い事が、このせいで宇宙に返品されているのではないかと私は考えます。

返品ということがあるのかわかりませんが(笑)、お願い事は通販の注文にとても
よく似ているといつも思ってしまいます。

ネットでとても気に入っているものを注文します、
そしてそれに対してお金も払います、
そしてとても楽しみにそれを待つのです。
でも、実際に宅配便の人がそれを持って、自分のドアの前に立って
チャイムを鳴らすと、なぜか
「出ない」

信じられないような光景ですが、お願い事をして最後に「受け取らない」のは
こういうことなのです。
すごく奇妙な光景ですよね?
留守でもないのに。

宅配便の人は、届けるために一生懸命努力します。
チャイムに反応がなければ、ドアを叩いて名前を呼びます。
それでもだめなら電話がかかってきます。
(ちなみに私の家のヤマト便の担当さんは私が出ないとこうします。
私はひそかに彼を「神の使者」と呼んでいます(笑))

その間、注文した本人は相変わらず、かたくなに反応しません。
受け取ろうとはしません。
だからこそ、何度も何度もチャイムがなります。
受け取らないのですから、でも家にはいるのですから、呼び出しが続くのは
ストレスにさえなってきます。
居留守を使うと疲れます。
そしてどんどん消耗していきます。

なぜ受け取らないのか、頼んでおいて拒否するのか。
答えは明白です。

「受け取る価値が自分にはない」
と思っているからです。

そういう「恐れ」を持ち続けているから、玄関には出られないのです。
その願望が自分にとって大切で、本当に願っていて、そして手に入れたかったもので
大事であればあるほど、その恐れも強くなってしまうのです。
その大切な願望と自分との「落差」という幻想を、受け取る段になって
なぜか勝手に作り出しているからです。
そして、そのような落差を感じるのは「判断」をしているからです。
「ふさわしいか、ふさわしくないか」の判断です。
そこにはただ「恐れ」しかありません。
それは「愛」ではないのです。
だから何も建設的なものを生み出しません。
ですから不毛です。

もしもこれが本当にただの通販の注文だったら、
相当おかしな光景ですよね。
食べ物でも、インテリアでもなんでも、自分で注文しておいたのに
「わたしなんかそれにはふさわしくない!」と受け取りを拒んでいるのです。

「わたしなんか、その洋服にはふさわしくない!」
「わたしなんか、そのおいしそうなお菓子にはふさわしくない!」
「わたしなんか、その本にはふさわしくない!」

ちょっと笑ってしまうような話ですが、そういうことなのです。
そして、もっと驚くべき事実は、通販の注文も、私達の「真剣な」願い事も
宇宙にとっては全く差がない、ということなんです。
さっき書いたように、大きいとか小さいとか、いわゆる「判断」をするのは
いつでも人間だからです。
だから、私たちが願い事をしても、「恐れ」の気持ちから「受け取らない、
受け取ることを認めない」のは、先ほどのような情景くらい「無意味なこと」なのです。

だから「恐れ」自体、実体などはなく、幻想で、まるで意味のないもの
あるいは、私たち魂の存在にとって持ち続けるにはふさわしくない感情であるから
「手放しなさい」と再三言われるのです。
耳にタコができるくらい、ですよね(笑)。
それはつまりそういうことなんです。

自分で注文したのにも関わらず、「恐れ」というまるで実体のないもののために
「受け取る」ことを拒否するのは、二重に矛盾した考え方、行為です。
だから疲れるのです。
つまり、流れに抵抗しているからです。
ふさわしくないことをしているから、なのです。
そのことを『引き寄せの法則”感情に従って幸せの川を下ろう”』では
「源(ソース)と一体になった自然な幸せの流れに逆らって、反対方向を向いて
上流に一生懸命上ろうとするのは、つまり幸せの流れに乗るのを抵抗すること」
と述べています。

「恐れ」の気持ちから抵抗してしまうのは、自然な源(ソース)の流れから
自らを切り離してしまうことだと言っているのです。
つまり、抵抗せず流されていれば、自然に幸せになるのだということです。
そう、私たちは「何もしなくても幸せになる」のが本来の姿なのです。

「何もしない」それは行為がなくなるということでもなく、
「何も考えない」ということでもありません。
「ありのままでいる」ということです。
ありのままとは、「何かをコントロールしようとしない」という意味でもあります。
つまり何もしない、のです。
ただ「受け取る」だけです。
「心配する」ことでさえ、しなくていいことを「している」ことになるのです。

「ありのまま」それは、私たちが「神聖で、永遠で、無限の愛の存在」だということです。
そのままでいればいいのだ、ということです。
何か(判断)をしようとする、ということは、つまり不自然であるから「恐れ」
という実体のないものを生み出して、自分で自分を縛りつけてしまうのです。
幻想に身を委ねていれば、それは実体がないので、落ち着きがなく、
心の平安も得ることは難しいでしょう。
幻想は幻想です。
それに力を与えてしまうのは、他でもない私たち自身です。

そんな時私たちは自分を見失っています。
自分を認めることができません。
だから他の人や出来事に意味を見出そうとし、そこに認めてもらうことによって
自らを認めようとします。
でも、自分を認めていないのに、つまり自分を信じていないのに他の人や出来事の
承認を得たとしても、本当の安心にはつながりません。
自分を信じて認めていないのに、それを代わりに誰かにやってもらおうと
するのは不可能だからです。
だから、いちいち人の反応や出来事の変化に振り回されてしまいます。
それに合わせていくのが精いっぱいだからなのです。
常に承認を得なければならないわけですから。
でも、自分を認めていないのに、本当は他の人、出来事を信用することなど
できないのです。

だから、さらに承認を求めて、虚しい旅を続けることになるのです。
その間は、自分で自分に向って、あれこれと虚しい旅をすることを
正当化し続けることになるでしょう。
その旅のお伴は、「説明」という長くて意味がわかりにくく相手や状況によって
変化するものと、「良いか悪いか」を常に考えることによってしか成り立たない
物事を表面的にみるためだけの「判断」という道具だけでしょう。

その旅は、どこに行こうと自分から自分を遠ざけてしまうだけで
何も生まず、何ももたらしてはくれません。
ただ、疲労するだけ、恐怖するだけ、批判するだけです。
ですからひたすら疲れます。
でも気がつくまでは止めることはできないのです。
しかし、気がつけばいつでも止めることができるのです。
気がつくというのは、自分をしっかり見つめる、ということです。
幻想に縛られている自分は、本来の姿ではないのだと
条件なし、つまり判断なしで受け入れることです。

「判断」は見せかけのものです。
それでは物事の本質を表すことはできません。
判断することをやめなければ、私たちは常に危険にさらされます。
それは自分と人、物事の神聖な側面を見失うということです。
「ただあること」が尊いのだ、という神聖なる真理を曇らせて見えにくくさせ
ごくごく小さな価値観によって、すべての事象から輝きを奪ってしまう。
そして、そのことによって私たちは永遠に真理から遠ざかってしまうのです。

だからニール・ドナルド・ウォルシュは『神より幸せ』の中で
「判断を止めるということは、その瞬間から感謝に移るということだ」
と述べています。
この記述は核心をついているでしょう。

そして「恐れ」の気持ちは「判断しているから」生まれてきます。
「判断」するという「何かをする」ことをしているからです。
起こっていることをありのまま見つめるのではなく、
常に何かの「判断」をしようとすると、物事は滞ります。
あるいはいつも同じ結論にしか到達しません。
ですから結論自体がとても速く決まります。
望んだものが素晴らしいものであればあるほど、ひとは受け取る前に
自分で自分を判断しようとして、その罠にはまります。
その贈り物に自分がふさわしいのかを判断しようとするのです。
そして自分に条件を付けようとします。
ふさわしくなるための条件です。
つまり判断することによって、しなくていいことをしてしまうのです。
そして流れに逆らってしまう。
「愛」から、望んだはずの「贈り物」から遠ざかってしまうのです。

判断をやめる=感謝に移行する
ということは、つまり、「ありのままを受け入れる」ということです。

ここで言う、自分でしかけてしまった「罠」の正体とは「恐れ」なのです。
そして「恐れ」は、「判断」から始まります。
そこから私たちは、物事の本質を見失うのです。
ただ「判断」と「観察」は全く違うものです。
「観察」は単にそのことを、そのまま見て描写するということです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
「観察」は必要な作業です。
しかし「判断」というのは、全ての物事、人の美しさ、神聖な側面を
覆い隠してしまうものです。
大切なことが見えなくなってしまいます。
それによって自分と宇宙、あるいは自分と神とを分離させてしまうのです。
つまり自分から自分を分離させてしまうのです。

私たちは「愛」の存在なのです。
だから「ありのまま」で良いのです。
だから、そのまま、受け取り、楽しみ、愛して生きていくことが本来の姿なのです。
どこにも力を入れる必要なんてない、ましてや求めたものを拒否することなんて
しなくていいのです。
でも、どんなにいいものでも、求めたものだとしても、
勘違いの恐れの気持ちから「拒否」をすれば、
それは「受け入れられて」しまいます。
私たちには「自由意志」が保障されているのですから。
私たちは永遠に自由なのです。

不幸になる自由さえ認められている。
でも、私たちが愛であるなら、自然な姿は「幸福である」状態です。
それ以外は幻想です。
幻想の中にいて、もうそこから出られないと考えているなら、それは私たち自身が
自分で幻想に力を与えているのです。
だから、そっと幻想は解き放ち、静かに見つめてあげればいいと思うのです。

恐れを忘れる日など、なかなか来ないのかもしれません。
でも、「恐れ」も大切な存在です。
それがあるから、私たちは「愛」をより強く感じられるのですし、
「愛」の意味も知るのですから。

私たちは、ただ自分を「思い出せばいい」のだと思います。
自分自身が愛であること、そして他の人も皆、同じ愛であること。
なぜなら、私たちは皆、繋がっているからです。

「明らかにされるものはみな、光となるのです」(エフェソ 5.14)
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by lovingangelsnadia | 2009-05-16 09:36 | エンジェルセラピー