ドリーン・バーチュー博士公認エンジェルセラピープラクティショナー(R)の千鶴が、天使からのメッセージをお届けします。エンジェルリーディングのセッション等については、私のHPをご覧ください♪


by lovingangelsnadia
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

ふたつの世界があるのなら

もしも、「世界がふたつに分かれている」
もしくは、世界は様々なふたつの側面を持っていて、
それぞれに名前がついているとしたら・・・。

天国と地獄
あの世とこの世
上と下
お金持ちと貧乏

本当はこんなふうに、もうすでに私たちはある一定のラインで
世界をふたつに分けて考える癖がついている。

良いことと悪いこと
正しいことと間違っていること
合法的と非合法的

音楽と音楽的でないもの
猫とそれ以外・・・(?)

そしてもしも本当に「ふたつだけ」だったら?
いやいや、そんなことはない。でも、
シンプル過ぎる分類の仕方だとわかっていても、
「ふたつある」
「ふたつに分かれている」
もとい
「ふたつしかない」
と考えるとしたら・・・。
もしかすると、それで逆にクリアになるものがあるかもしれない。

例えば、

見えるものと見えないもの

その違いはなんだろう、と常に考えている。
私にとってそれは、信じられることと信じられないこと、
それに深く関わっている。

だからこの場合、どこまで行っても主語は
「私」であり、つまり「私が」信じることと、信じられないこと
という意味になる。

私が見えていることが、
他の人にとっての真実=信じられること
ではなかったとしても、それが私に与える影響は少ない。

ただ、私がひとつ、自分の中で厳密に決めていることは
私が私を取り巻く現実を受け入れるという作業。
だから私は私の現実をそのまま愛するために、もしかすると
見えないものを信じることをしているのかもしれない。

見えるものを愛するために見えないものを受け入れる。

自分自身が自分自身をどう思うのか、
どんな思考をしているのかということが、その人の本質だと思う。
着ている服や、職業でもなく、住んでいる場所でもなく
何を考えているかが、その人そのものなのだと。

だけれども、(だからこそ?)外側から見たら、きっといろいろな
形容詞をつけて見られることがあるのだとも思う。

パッケージはパッケージ。
表紙は表紙。だけどそこが一番目立つし、とりあえずは手に取って
感触を確かめてみることができるのは、そこだけかもしれないから。

だから私は自分自身を、「楽観的なニューエイジの精神主義者」
としてとらえることもできる。
時として、試しにそんなことも考えてみたりしている。

だから、同じような趣旨のことを、誰かに指摘されたとしても
そのことで私の中で何かが変化することは、おそらくない。

そして、もしも「ふたつある」という仮説に基づいて考えるなら
もう一方の世界では、私は「悲観的な時代遅れの唯物論者」かもしれない。
そして、私はそれもいいな、と思う。
どっちだっていい、名前なんて。

そして、私を取り巻く世界が、ふたつに分かれているなら、
それは「私自身」の中にもあてはめることができるかもしれない。

私の中にはふたつの分かれた世界があると。
そんな風に決めてしまうのは、強引で幼稚な考え方だとしても
だからこそ、私はそこを「どうしたいのか」を考えたい。
シンプルにするためにそれを敢えて使いたいのだ。

つまり自分が自分であるというのはどういうことなのか。
自分の中のふたつの世界に橋を架けることはできるのか?
それが私にはできているのか?

私の中のふたつの世界を、仲直りさせることはできるのだろうか、と。

もしそれが可能なら、
(あるいは幸運にももうそのことはすでに実行されているのなら)
それはどういう手段や方法を用いて行われているのだろう。

もしかすると、これから先考えが変わるかもしれないが
その唯一の手段とは「意志」なのではないかと思っている。

ふたつの世界が右と左に分かれていて、その中心を
まるで綱渡りみたいに、棒でバランスを取りながら進んでいるのだとしたら、
その中心にいるのは自分の本質で、バランスを取っているのは
「意志」なのではないかと。

中心はあくまでも中心であるので、ブレないのだけれど
バランスを取るための棒は、実はとてもブレやすくて、そのせいで
どちらか一方に傾くこともある。
でも、うまく使えば、もちろんバランスを取ってくれるのは、その棒だ。

現実は厳しい?
もちろんそう。
でもそうばかりではない。

眠れない夜に強いお酒を飲むみたいに、天使を使うつもりはない。
一時のなぐさめを与えてくれるだけなら、天使でなくてもいい。
もっともっと現実的で耽美的な楽しみで充分だ。

天使や見えない存在は、現実を楽しむことを教えてくれるもののはず。
現実を忘れさせてくれる、テーマパークのアトラクションとは違う。
「ある」ものを「ない」と感じさせるのは不自然だからだ。
「ある」ものをそのまま「ある」と受け止めた時に本当の「癒し」は起こる。

現実は厳しい?
もちろんそう。

だけど、現実はやさしい。
どんな人にも朝は来るし、陽は降り注ぐ。

信じるか信じないかは別として、見えない世界は存在する。
(もしも世界がふたつに分かれているなら)
そして、それはバランスを取ることで、本当に見えてくるものだと思う。

見えない存在は、私達を見える世界から切り離すためにあるのではなく
ただ、そこに歴然としてある。
ただ、イコールの存在として、見えない、見える、はどちらも存在している。

どちらかに傾いてしまうとしたら、それは私たちが自分の意志でやっていること。
傾くということはバランスを欠いている、ということ。

現実を忘れたくなる日は誰にでもある。
でも現実を忘れる必要なんて、たぶんない。

現実を愛しているから、私は非現実を愛する。
非現実を愛するから、現実を愛する。

ふたつあるならふたつなら
どちらもそのままでいい。
どちらとも関わることを選び続けたい。

私の尊敬する人が言っていた。
「世界はバランスでできている。バランスが崩れたとき問題は起こる」

だったら、私はどっちの世界も楽しみつつ、棒をしっかり持ちながら
鼻歌交じりに進んで行けたらいいな、と思っている。
[PR]
by lovingangelsnadia | 2009-06-19 19:11 | エンジェルセラピー