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ドリーン・バーチュー博士公認エンジェルセラピープラクティショナー(R)の千鶴が、天使からのメッセージをお届けします。エンジェルリーディングのセッション等については、私のHPをご覧ください♪


by lovingangelsnadia
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<   2009年 05月 ( 5 )   > この月の画像一覧

国技館へ行こう!

先週日曜日に夏場所が千秋楽を迎えて、
大関「日馬富士(はるまふじ)」が優勝しました。

そこで、今回は私の大好きな大相撲が行われている両国の
国技館を皆様にご紹介しましょう!!!

着いてきてね♪

JR両国駅を降りると、すぐそこが国技館です。
場所中はもう駅から相撲が始まっている感じです。
国技館前の通りには各関取りののぼりがはためいています。
これが建物の入り口まで続いています。
ちなみに私は、ここからすでにテンションあがってます(笑)。

そして、あまり知られていないのですが、場所中は
なんと朝8時半位からずっと取り組みが行われているのですよ。
テレビの相撲中継は早くても午後3時からですから、その6時間も前から
毎日、国技館の中では熱い戦いが繰り広げられているのです。

ちなみに私は、国技館で観る時は昼過ぎ頃から行っています。
マニアなもんで・・・(笑)。
d0073968_13582877.jpg

さあ、建物の中に入ってみましょう。
まず、ここは江戸情緒いっぱいの相撲茶屋と呼ばれる
お土産屋さんのある一角です。
相撲中継をご覧になるとわかりますが、マス席に座っているお客さんは
皆さん、大きな紙袋を近くに置いているでしょう?
あの中には、お弁当や湯のみ茶碗などのお土産がたくさん入っていて
それを渡してくれたり、席に案内してくれたりするのが
相撲茶屋の人のお仕事なんですよ。

江戸っ子の千鶴は、この一角だけでも興奮しちゃいます!!!
こりゃまたテンションあがっちまうねぇ~まったく!(笑)
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では、次は『国技館名物』の食べ物のご紹介です♪

d0073968_1452677.jpgご存知相撲と言えば『ちゃんこ』。
このちゃんこを日替わりで食べさせてくれるコーナーが国技館の地下にあります。この日は『醤油ちゃんこ』一杯250円です。とにかくちゃんこだけに具だくさん!野菜も数種類と、この日は鶏肉とつみれも入っていました。味もおいしくて大満足♪


d0073968_1483759.jpgお次は、売店で売っている焼き鳥です。
こちらも「国技館に来たら食べなきゃ!」という有名な食べ物なんですよ。
たっぷり入って600円です。
お腹いっぱ~い!





そして、もちろん!
国技館には焼き鳥とちゃんこを食べに来たのではありませんよ!
(でも食べ物もかなり重要(笑))
相撲観戦に来たのです!

そしてこちらが土俵と、それを取り囲むように配置された
マス席と呼ばれる座布団敷きの客席です。
この時間はまだ中入り前なので、お客様も少なめです。
そしてその下の写真は、この日の西方幕内力士の土俵入りです。
大きなお相撲さん達が土俵に一斉に上がると、土俵がこんなに小さく
見えてしまうんですね~♪
化粧回しもそれぞれが個性的できれいですね。
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そして横綱・白鵬の土俵入りです。
う~ん♪やっぱり貫禄が違います。
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そして、私のごひいき力士、
稀勢の里(きせのさと)の取組の様子です。
「きせのん、頑張れ~~っ!!!」
私が熱く声援を送ったせいか(笑)
この日は無事白星を挙げ、結局千秋楽まで優勝争いに残りました!
d0073968_14261413.jpg


相撲を観に行くと、一番いいのがやっぱり臨場感です。
各力士の気迫も伝わってきますし、テレビ中継では見れない取組前の
様子からもいろいろなことがわかります。
「生」ならでは、の迫力と雰囲気です。

今回、そのことを強く感じた出来事がありました。
それは、たぶんテレビじゃなくて、「生」でしかわからなかったことなのです。
人間の持っている素晴らしいある”もの”を見ることができました。
つまり、輝きやオーラと言ってもいいかもしれません。

私が観に行ったのは後半戦に入った10日目だったので、まだ優勝が
誰になるのかわからない状態でした。

横綱・白鵬が先々場所から連勝記録を伸ばしている最中ですし、
もう一人の横綱・朝青龍は決して万全とは言えない状態なので、
下馬評では「白鵬の優勝かな~」という空気でした。

でも!
この日、直接観戦に行き、
割と好きな大関・日馬富士にも私は注目していました。
関脇「安馬(あま)」だった頃から、とても気になる力士でしたし、人気もあります。
そして出番になったので、ワクワクしながら土俵上のその姿を見て、
すごくびっくりしてしまいました。
体全体が真っ白に輝いていて、まるで土俵全体を照らしているようなのです。
そのために土俵と、周りにいる人達までもが輝いて見えました。
せっかくなので写真に撮ろうとカメラで写してみましたが、
真っ白になってしまって、撮影することさえできないくらいだったのです。
まるで「後光がさしている」といった感じでした。

そして、もう一人。
土俵に上がったところを見ていると、白く輝いている人がいました。
それは、横綱の白鵬です。

もう一人の横綱、朝青龍も、若干輝いてはいたのですが、
その輝きは前出の二人には及びません。
そして白鵬の輝きは、すぐに消えてしまいました。

とにかく日馬富士の輝きっぷりったら!
本当に彼がいるために、土俵全体が輝いているようでした。
私は「日馬富士が優勝したりして」とちょっと思いました。
(すぐ忘れちゃったんですけどね(笑))
そして、めでたく日馬富士が優勝したのです。

テレビでアップになったりしても、表情とか動きで調子が良いとか悪いとか
わかることももちろんありますが、やっぱりこれほどまでに鮮明に伝わってくる
ものがあるのは、まさに「生」だからなんだな、と
つくづく感じました。

それから、私が相撲を好きな理由はもうひとつ、
それは国技館なのです。
行かれた方はおわかりかもしれませんが、あそこは本当に空気が違います。
いわゆる「気」の良い、どこかの神社みたいなエネルギーが流れています。

昨今は相撲関連で不祥事なども多いですが、それでもやはり国技館の
良さが一番出ていて、そのエネルギーがさらによくなるのも
場所中なんだろうな、と思いました。
そう言えば、ダライ・ラマの来日講演会が国技館で行われることが多いのも
この「気」の良さからかもしれません。

相撲は神に捧げる神聖なスポーツなので、儀式が多くて
いろいろな事にとても丁寧に時間をかけながら進んで行きます。
それでいて、競技自体はとてもシンプルです。
でも、シンプルがゆえにそれぞれの技などはとても奥が深いのです。
そこが相撲のおもしろさなのです。

そして相撲自体は400年位前からやり方もあまり変わっていないそうで
きっとその時代時代で観ていた人も、こんな風だったのかな~
と、取り組み中にふとそんな思いを巡らせてしまいます。
だから私は相撲を見ていると、どこか古い時代に戻っているような、
そんな気がしてしまうのです。
すごく長くて、ゆったりとした時の流れとか、日本人が大事にしてきたものを
受け取っているような気がするのです。
そして、それぞれの時代の人達と一緒に観戦しているような不思議な
懐かしい感覚にとらわれます。
つまりタイムスリップしているみたいなのです。

だから私は相撲が大好きです!
皆さんも、ぜひ一度国技館で相撲観戦を楽しんでみてくださいね!

・・・って、エンジェルセラピーと全然関係ないじゃん(汗)。
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by lovingangelsnadia | 2009-05-29 14:51 | 日常のひとこま

”汝の敵”の愛し方

前回の続きでーす。

自分で記事を書いていて、
「思い出す」「”汝の敵を愛せよ”」の二回連続シリーズ
(え?シリーズだったの?自分でも今、初めて知りました(笑))は
正直わかりにくいと思ったのです、とっても。

「何回も読みました!」などのご感想のメール等も頂いていて
大変感謝しておりますが、もうちょっと補足した方が良いかなと
思っております。

ですので、またまた今回もお付き合いくださいませ。

前回の趣旨は
「ダメダメな自分を受け入れよう。
ダメダメな状態にこそ、一番最高の状態への大きなヒントがあるのだ!」
と、かなり力強く”敗北を称える”(笑)ものだったわけなのです。

が、しかし。
「そんなこと言ったって~
嫌なものは嫌だし~
やっぱり早く元気になりたいし~」
というのが人情でしょう。

そりゃそうです。
私もそう思います。
断然そう思います。

だって、嫌な状態は、まさしく「嫌な」状態だから、嫌なわけです。
だから、「嫌」だから、「早く」抜けたいのです。

で、ここがミソです。

すごく嫌だと、人間ってすごく頑張ってしまうんです。

「ああ~~!もうやめて~~~~~~~~!
助けて!絶対に嫌~~~!早くおさらばしたい!
一刻も早く忘れたい!」

でもでも!
実は、この「頑張り」がいけないのです。
頑張ってしまうために、余計に長引いたり、苦しくなったりするんです。

なぜかと言いますと、頑張ってそのことに「対抗」しようとすることは
逆にそのことに「力を与えてしまう」からなのです。

もともと人間は、
非常にやっかいなことに、嫌なことにほど、たくさん時間を使って
考えまくってしまう傾向があります。
分析したり、探求したり、比較したりetc・・・
とにかく、そのことばかりを考えてしまいます。
気がついたら一日中・・・な~んてことはザラで、
もしかすると何か月も、何年も・・・。
それがやがて、自分の中の「スタンダード」になってしまっているかも?

そのことが「力を与えてしまう」ということです。
つまりスペースも労力も使ってしまっている、ということですね。

どんなに楽観的で、ポジティブで、悟った人でも、大なり小なり
こういった傾向はあると思います。

でも、そんな中でも、できることはたくさんあります。
そして、中でもやっかいな「思考」におさらばするのに一番良いのは
この思考を「認めて」あげることなんです。
つまり、「抵抗しない」ことです。
もしかすると、これが唯一の方法なのかもしれません。

抵抗するから、相手は力を出して押し返してくるのです。
押せば押し返す。
ああ言えばこう言う。
殴ったら殴られる。
右の頬の次は左の頬・・・?っていうのはちょっと違うけど(苦笑)。

では、具体的なやり方です。
もしも、嫌な考えが浮かんだら、こうしてみたらいかがでしょう。
例えば
「ああ、アタシってダメだわ」
そう思ったとしましょう。

そして今回は、とてもわかりやすく
「ダメ」と思った原因が「ダイエット」だとします。

体重計に乗ったら、気をつけていたはずなのに、まさかの体重増加!

が~~~ん。

「うそ!増えてる!」
「ああ、嫌だな」
「どうして?」
「食べすぎちゃったな」
「運動もさぼっちゃったし」
「そういえば、お肌の調子も悪い」
「これではデートに行けない」
「私ってブス」
「この間もダイエットに失敗したし」
「気分悪い」
「なんであんなに食べちゃったんだろ」
「アタシってホントに意志が弱い」
「何やってもダメなのかな」
「またダイエットしても結局は失敗するのかな」
「アタシって何やってもダメなのかな」

もしかすると、ここから先は、嵐のような”負のスパイラル”
に入っていくかもしれません。
っていうか、すでにもう負の連鎖が続いて来ていますけど(笑)。
こうやって過去の失敗や、嫌な体験、苦手な人のことを
あれこれと関連付けて思い出してしまったりして、自己嫌悪したり
それこそこの「体重増加」という体験を「肥大」させてしまうのです。

とりあえず、出来事に対する「反応」として
「体重増加!が~~~ん!」は仕方ありません。
実際、増えっちゃったわけですから。
ここから目をそらすのはダメです。
原因があって結果があるのですから。

でも、前々回の記事に書いたように、
その次にやっている「判断」はやめてみたらいかがでしょうか。
つまり

体重増加(目的を果たせなかった)=悪いこと(ダメな自分)

という構図です。
目的を果たせなかった、は、他の言い方もできるかもしれません。
「やりたくないはずのことをやってしまった」とか。
これは他の人生における、もっと複雑なことに関しても
基本的には全く同じようにあてはめることができるはずです。

確かに、ダイエットしているのに体重が増えたら、それはダイエットの失敗を
意味します。減らすはずが増えちゃったんですから。

でも、それは「減らすつもりだったのが」たくさん食べたか、
あるいは運動を怠ったために「増えてしまった」という
単に、原因があって、ある結果が引き起こされただけです。
ただそこだけを受け入れるのです。

だから、そこから
「ああ、私ってダメ」と言う考え(判断)に持っていくのではなくて
「そっか。体重増えたんだな。そっかそっか」
と淡々と事実を受け止めるだけ、にするのです。
そこでとめるのです。
でも、そこだけは「ちゃんと」受け取る。
ただ淡々と。粛々と。

目をそむけずに、きちんと正面から。
「見なかったことにしよう!増えなかったことにしよう!」
ではなくて(笑)。
ただ淡々と、そのままを。
そして、一切ジャッジをせずに受け止める。

「そっか。増えたんだな。そっか。はいはい」
こんな感じです。
良くも悪くもない。
ただ、「増えた」という事実のみを認めるんです、しっかりと。

そして次にやるのが、
またこれも淡々と
「じゃあどうしたいか」と考える。

ただそれだけです。

つまり「反省会」はしても「落ち込み」はしない、ということです。

前々回に書いたように「観察」をすることは必要です。
それはただ単に、何が起こっているのか、何が起きたのかを「観察」するのです。
でも、そこに「判断」を入れるから苦しくなるのです。

なぜ判断はしないほうがいいのでしょうか。
それは「判断」が実は非常にあやふやなものだからなんです。

時代が変われば、相手が変われば、状況が変われば変わるのです。
それが「良い、悪い」「大きい、小さい」「優劣」などの、いわゆる「判断」です。

ですから
その時に「判断」ではなくて、自分の意思、あるいは希望を入れたらどうでしょう。
その方が簡単なはずです。
もともと、ちゃんとした希望は持っているのですから。
そして、こういうやり方をすることで
足元をちゃんと確認しつつ、さらに歩を進めることができるわけです。
それも、希望している方向へ。

でも自己嫌悪していたら、そこから先には絶対に前には進めません。
それこそ「負のスパイラル」が続くのみです。
自己嫌悪は、さらに負の連鎖を引き起こすだけなのです。

もしも、ちゃんと前に進みたかったら、とにかくその
「嫌」な状況から離れたかったら、絶対にやってはならないのは
自己嫌悪です。
それだけは確かです。

だって、自分で自分を嫌っていたら、それこそ根本が揺らいでしまうわけ
ですから、竿がないのに釣りに行くようなものだし、
絵具がないのに絵を描くようなものだし、
ハンドルがない車みたいだし、
サドルがない自転車みたいだし、
納豆がないごはんみたい(超個人的な好み(笑))です。

自分で自分の一部分を否定していたら、それは自分の内部が
分裂していることを意味します。
だから、その状態でいる時、とても疲れます。
そしてそれが長引けば、もちろん病気の原因にもなるでしょう。
それは人間として、とても不自然な状態だからです。
本来一つであるはずのものが、分裂しているのですから。
そのような状態で、いわゆる問題を乗り越えるような力や
インスピレーションが湧き起ってくることは困難です。

さらに、私たちは誰もが完全に独立していますが、誰もがつながっています。
自分を否定しているということは、嫌悪しているということは
遅かれ早かれ、誰か他人を否定すること、嫌悪することにつながってしまいます。
そうなると、もっともっと苦しくなってしまいます。

「判断」しないで、そっと「見つめて」あげる。
だから本当は自分の中にも外にも「敵」なんかいないのです。
ただあるのは、あらゆる自分の、あらゆる側面だけ。
いろいろな自分のいろいろな部分があるだけ、なのです。

それは、ただ「そこにいる」「そこにある」ことを
「はい」と言って、見てあげるだけでいいんです。
それ以下でも、それ以上でもありません。

そして次は、ただ自分の意思を確かめて
そちらに意識を持っていくのです。
つまり「本当に望むこと」の方向です。
見てあげたら、あとはそこから自分で自分の中の
「望む」部分を選んであげればいいのです。

もしかするとそんな時にあなたの耳には、
ちょっぴりいじわるな、こんな声が聞こえるかもしれません。

「あら~
あなたってお気楽ねえ~」

その声の主は、自分自身かもしれないし、他の人かもしれません。
でも、そんなことは関係ないのです。
こう答えてあげましょう!

「ええ、ええ、そうです、確かにワタクシはお気楽です。
でも、そのお陰で誰のことも嫌いじゃないし、恨んでないし
と~~~っても楽しい人生です!
私は私が好きなんです!」って。

だって、
あなたが自分で自分をすぐに明るい陽だまりに連れて行ってあげられるなら
きっと他の誰かのことも、そうしてあげられるとは思いませんか?
そして、それを本当の「力」って呼ぶのではないかしら?
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by lovingangelsnadia | 2009-05-26 17:44 | エンジェルセラピー

"汝の敵を愛せよ”

「許す」「受け入れる」と言うことを、
もうちょっと考えてみたいと思います。
なぜなら・・・。
これらのことは口で言うのは簡単ですが、一番難しいこと
だと思うからなのです。

私たちは、常に「自分らしくありたい」と願っています。
そして「幸せになりたい」と。

さらにどこか「行くべき場所がある」とも思っています。

でも、とても大切なのに忘れられていることがあります。
それは、前回書いたように、ひとが本当の幸せと心の平安を得るのは
「どこかに行く」ことからではなく、
「ありのまま」でいること、つまり「今ここ」に気がつくことなのです。

「幸せになる」のではなく、「幸せである」ということ。
それに気がつく、思い出すということなのです。

天国はここにあります。
私達の「今」が天国なのです。

でも、なぜ多くの人がそれに気がつかずに苦しい毎日を送っていたり
「いつか幸せになりたい」と願っているのでしょうか。

それは「知らない」から、です。
「天国はここにある」つまり「もうすでにある」「そうなっている」
ということを「知らない」からなのです。

なぜ「知らない」のでしょう。
なぜ「気がつかない」のでしょう。

それは単に「知らない」から、です。
あらあら!
なんだか禅問答のようになってきてしまいましたね(笑)

では「知らない」ことは、良くないことなのでしょうか。
それはそうかもしれません。
だって「知らない」から「幸せじゃない」のですから。

でも、ここで登場するのが今回のタイトルの
「汝の敵を愛せよ」という聖書の中の有名な言葉です。

「知らない」状態が「幸せじゃない」状態ならば、
「知る」ことがいいことなわけです。
でも、そもそも「知る」ということは、「知らない」という状態があるから
成り立つことなわけです。

だから「知らない」状態は「知る」ために必要な状態なのです。

例えば、やりたくないことをずっと続けていたとします。
仕事でもスポーツでも、日常のちょっとしたことでも。
でも、そのことがあるからこそ「私がやりたいのはこれじゃない」
と気がつくことができます。

つまり「私がやりたいのはこれじゃない」ということを「知る」
ことができるわけなんです。
「知る」ことが大切です。

ふさわしくないことを続けているのは、それを「知らない」から。

もしも、誰かをとても憎んでしまったことがあったとしても
それは、誰かを深く愛するために必要な経験だったのかもしれません。

大病を得た人が、健康のありがたさに気がつくように、
一文無しになった人が、大金持ちになるように、
最悪(だと思われている)経験から、最高(だと思われている)経験を
望むことができるわけなんです。

だから落ち込んでいたり、焦っていたり、何かが上手くいかなかったり
人を嫌ってしまっていたりしても、そんな自分を責めたり、
ダメだと思う必要は全くないのです。
そういう自分を拒否しないであげてください。

「汝の敵を愛せよ」とは、つまりそういうことだと思うのです。

一番望んでいない状況の中にこそ、一番望んでいる状況を
選び取るヒントが隠されているのですから。
もっと一般的な言い方をすれば「ピンチはチャンス」ということです。

一番ダメな状態の自分には、一番美しくて素晴らしい自分に
気がつくための大きなチャンスが隠されているのです。

すごく嫌な気分、悲しい気分の中にもそれは隠されています。
だから、そこから目をそむけないで、そっと抱きしめてあげればいい。
そんな自分から逃げようとしなくてもいいのです。

そして、まるで「敵」のような、ネガティブな気分や状況を
「愛すること」ができたなら・・・。

「愛する」とは、受け入れること、許すこと、です。
でも、好きになろうとしなくてもいいのです。
そんなふうに頑張らなくてもいいのです。
ただ、見つめて、受け入れてあげることができれば
それは「愛する」ということなのですから。

例え「好きになれない」つまり「好ましくない」ことだって
受け入れてしまうことで「愛することができる」のです。

あらあら・・・。
またまた禅問答のようになってしまいました?(笑)
でも!
愛だけがすべてを可能にするのです!

だからすべての人が今いる場所、すべての事柄、状況は
神聖であり、祝福されているのです。
そのことに気がつくこと。

それが前回私が書いた「思い出す」ということでもあります。

そんなに頑張らなくてもいい、ただそっとそっと抱きしめてあげて
「本当のこと」「知りたいこと」を思い出してあげてください。
自分のために、世界のために。
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by lovingangelsnadia | 2009-05-24 22:49 | エンジェルセラピー

”思い出す”


今日はちょっと真面目なお話を・・・。

私たち人間は「自分」の仕掛けた罠にはまる時があります。
これには私自身も随分苦しみました。
そして、ここでストップしそうになる時がたまにあるのです。
なかなか手ごわい「罠」ではありますが、正体を知れば攻略することはできます。

その「罠」とは一体何なのか。
今回はおそらく一番わかりやすい例として「願望実現」の際によく見られる
側面を使って説明したいと思います。

大ヒットした『ザ・シークレット』には、何か願望を叶えたい時は
「お願いする・信じる・受け取る」をしましょうと書いてあります。
もう今では、これはかなり使い古された表現になっているかもしれません。

『マーフィー』も『引き寄せの法則』も結局は同じようなことが書いてあります。
そしてドリーンが著書でも
「お願いごとをしたら信用して待ち、ちゃんと受け取りましょう」
と述べています。

そして天使がドリーンの口を借りて何度も言っているのは
「恐れを手放しましょう」ということです。
そのために私達に助けをお願いして!と。

何かの「願望を叶えること」それと「恐れを手放すこと」

この二つはコインの表と裏のようなもので切っても切り離せない関係なのです。
むしろ切り離して考えることは不可能です。

そして
どうやったらうまくお願いできるのか、どうやったら信じられるのか・・・。
そういったご質問をセッションで受ける場合もあります。

でも実は人間は、生まれた時からずっと、ちゃんと自分のことは
「お願い」したり「信じたり」できているのではないかなと私は考えています。
それが例えば「望まないこと」だとしても、そのことをずっと長いこと
自分の中で抱えていれば、それはまるで「信念」のようになってしまっていて
それが実現するのです。

「幸せになりたい」「健康でいたい」「お金持ちになりたい」「完璧な伴侶が欲しい」
例え漠然としていても、必ず何かの望みは自分で持っていて、そのことを
考えていたり、そうなりたいと強く願うこともあるはずです。

でも、それがたとえ「望まないこと」だったとしても、ずっと考えていれば
そこから出なければ、そちらが実現されるのです。
つまり望まないことを考え続けることによって、「望まないこと」を
「望んでいること」になるのです。
そして、宇宙は「強い感情、信念」に反応するのです。

例えば、自分は不幸な恵まれない境遇だ、容姿に自信がないからモテない、
不況だから仕事がない、年を取ったら体にはガタが出てくるものだ、
自分の学歴では立派な仕事にはつけない、親に愛されなかったから人を愛せない。

これらは「望まないこと」ではあるとは思いますが、こういった何かのきっかけで
長年持ちつづけることになった思考は、
まるでその人の信念になってしまったように
その人自身を常にある一定の場所に縛りつけます。
とても自然に、とても普通に。
縛られている不自由ささえも、いつの間にかスタンダードになっています。

だから本人でさえ、そのことに気がつかないことも多いのです。
「そこの場所」から常に物事を考えて、判断してしまうからです。
その枠から出ることは、ちゃんと意識していないとなかなか難しいでしょう。
なぜなら、それがもう癖になっているからです。
自動的にやっていることだからです。
でも、そこにはとても重大な問題があります。

それは「不足」からは「不足」しか生まれない、ということです。

「〇〇がないから、△△が欲しい!」とお願いすれば、
〇〇がない、と言った時の感情の方が強いですし、
それは長年持ちつづければ、まるで「信念」のようになっているでしょう。
だから、それを考えたり口にすることは本人も気がつかないくらい
の当たり前のことなので、癖になっているのです。
それをちゃんと「意識して」変えなければ、昨日までと同じことを
人間は惰性で繰り返します。
癖とはそういうことです。
良いとか、悪いでありません。
ただの「あるパターン」が身に付いている、というだけのことです。
この場合は「ある思考のパターン」です。

でも、宇宙は常に公平です。
ノージャッジです。
だから、強く感情がこもった方に反応します。
良いか悪いかを決めているのは人間だけです。
宇宙は判断しません。

だから「不足」は「不足」を生み出すのです。

先ほどの『ザ・シークレット』の願望実現のプロセスで説明すると
「お金がないから、そうだと困るから、怖いから、お金が欲しい!」と
ずっと追い立てられたように
【願い】続けていたとしましょう。
そうすると強い感情の方「お金がないから困る、怖い」に宇宙は反応するのです。
さらに「お金がないから、困るから」の状態が長く続いたために、あるいは、
そのことが強烈な恐怖や苦しみの原因だったために「不足」している状態を
【信じて】しまっています。

そして最後に、その不足している状況に慣れてしまっているから
その不足した状況をただ漠然と【受け取って】しまうのです。

こうやって、常に不足のサイクルが繰り返されます。
何かが変化してうまくいきそうになっても、「不足」の信念が強ければ
自分でよほど意識して転換しようとしない限りは、ほとんど自動的に「不足」の状況を
自分から造り出して、さらに自分で自分を縛ってしまいます。
自らその場所に、戻って行ってしまうのです。
誰かの力で戻されるのではなく(そんなことは不可能です)
自ら戻って行ってしまうのです。
誰にも止めることはできません。
私たちには「自由意志」が保障されているのですから・・・。
これが「不足」が「不足」を生み出す、というプロセスです。

大きな「罠」にはまっているから、このサイクルを続けてしまうのです。
では、その罠を別の視点から眺めてみましょう。

私たちはすでに様々なことを願っているし、信じているのだ、と書きました。
先ほどの例は、「不足」に重点を置いた例でした。

きっとこのブログを読んでいらっしゃる皆さんは、すでにこれ位のことは
ご存知で気をつけていて、生活に活かしていらっしゃるのではと思います。
つまり「望むことを望み、それを信じて、受け取る」ということです。
望まないことに関心を置かないようにすることとも言えます。

それでも、あえて「罠がある」、と私が言うのはどこの部分なんでしょう。
もしかすると、人類の課題なのかも、とさえ思ってしまうことなのです。
そしてこちらのパターンの方が、前出のより巧妙で、静かで、わかりにくいので
非常にやっかいなのです。

私たちはいろいろなことを願います。
そしてそれが実現するように心から願います。
なるべく鮮明にイメージをふくらませて、すでに自分がその状態にあるかのように
楽しみつつ願うことができます。
でも実現しない・・・。

それは最後の肝心な「受け取ること」をしないからなのです。
「受け取ることを認めない」と言う言い方もできます。
それが「罠」なのです。

つまり私たちは、その自分の仕掛けた「罠」にはまって身動きできないでいる
ことがとても多いのです。
その自ら仕掛けた罠のために願望が実現しない(しているのに気がつかない)
のを、そのことにさえ気がつかないで
どんどんエネルギーを消耗し、果ては願うことさえ無駄に思えて
天を仰いでこう思います
「ああ、やっぱりだめだった」と。

宇宙は偉大です。
無限で永遠で不可能はありません。
それを神様とか創造主とか、根源的な存在、源(ソース)と呼んでもいいでしょう。

だから願いを叶えることは、水が高いところから低いところへ流れるように
当然で自然なことなのです。
そしてそれは、とりもなおさず私たち一人一人が、例外なく神聖で、永遠で
無限の存在だということなのです。

その私たちが望むことが実現されないわけはありません。
そんなことがあるとしたら、私たち自身がそれを自ら阻んでいるということになるのです。
つまり「受け取っていない」のです。

それが、私の言う「やっかいなパターンの罠」なのです。

「願いはすでに叶っているのに受け取っていない、受け取ることを自らに認めない」
のです。
「受け取らない、受け取ることを認めない」
そのことは誰もが一番後回しに考えてしまいがちなことなのです。
「お願いすること、信じること」
に一生懸命過ぎてしまい、実は受け取ることがとても大切なのに
そのことを忘れているのに気がつかないのです。
もしくは「受け取ることを楽しみにしていて」も、
実際に本当の意味で「受け取っている」かというと、
実はそうでもなかったりもするのです。
もしかすると「頭」で考えて、受け取ったつもりになっているだけ
ということだってあるのです。
こうなると非常に厄介ですね。
でもとてもよくあることだと思います。
つまり「受け取っても良い、受け取る価値が自分にはある」と
頭では十分わかっているのに、気持ちの方がついてきていない場合です。
「受け取らない、受け取れない理由」を探して、見つけている時がそうです。
だから、この「罠」が「自分で」しかけた「最大の罠」になってしまっているのです。

ではどうして、そんなことをしてしまうのでしょう。

それは先ほど、コインの表と裏、と言う例えで
「願望をかなえる」ことと「恐れを手放す」ことはセットになっている、と書きました。
まさにここなのです。

実は、私たちは「恐れ」があるために最後の最後で「受け取る」ことを自ら拒否しているのです。
たぶん、お願いの仕方が間違っているとか、信じられないからダメだったとか
そういう理由で願望が実現されなかったケースよりも、もっともっと膨大な数の
美しい願い事が、このせいで宇宙に返品されているのではないかと私は考えます。

返品ということがあるのかわかりませんが(笑)、お願い事は通販の注文にとても
よく似ているといつも思ってしまいます。

ネットでとても気に入っているものを注文します、
そしてそれに対してお金も払います、
そしてとても楽しみにそれを待つのです。
でも、実際に宅配便の人がそれを持って、自分のドアの前に立って
チャイムを鳴らすと、なぜか
「出ない」

信じられないような光景ですが、お願い事をして最後に「受け取らない」のは
こういうことなのです。
すごく奇妙な光景ですよね?
留守でもないのに。

宅配便の人は、届けるために一生懸命努力します。
チャイムに反応がなければ、ドアを叩いて名前を呼びます。
それでもだめなら電話がかかってきます。
(ちなみに私の家のヤマト便の担当さんは私が出ないとこうします。
私はひそかに彼を「神の使者」と呼んでいます(笑))

その間、注文した本人は相変わらず、かたくなに反応しません。
受け取ろうとはしません。
だからこそ、何度も何度もチャイムがなります。
受け取らないのですから、でも家にはいるのですから、呼び出しが続くのは
ストレスにさえなってきます。
居留守を使うと疲れます。
そしてどんどん消耗していきます。

なぜ受け取らないのか、頼んでおいて拒否するのか。
答えは明白です。

「受け取る価値が自分にはない」
と思っているからです。

そういう「恐れ」を持ち続けているから、玄関には出られないのです。
その願望が自分にとって大切で、本当に願っていて、そして手に入れたかったもので
大事であればあるほど、その恐れも強くなってしまうのです。
その大切な願望と自分との「落差」という幻想を、受け取る段になって
なぜか勝手に作り出しているからです。
そして、そのような落差を感じるのは「判断」をしているからです。
「ふさわしいか、ふさわしくないか」の判断です。
そこにはただ「恐れ」しかありません。
それは「愛」ではないのです。
だから何も建設的なものを生み出しません。
ですから不毛です。

もしもこれが本当にただの通販の注文だったら、
相当おかしな光景ですよね。
食べ物でも、インテリアでもなんでも、自分で注文しておいたのに
「わたしなんかそれにはふさわしくない!」と受け取りを拒んでいるのです。

「わたしなんか、その洋服にはふさわしくない!」
「わたしなんか、そのおいしそうなお菓子にはふさわしくない!」
「わたしなんか、その本にはふさわしくない!」

ちょっと笑ってしまうような話ですが、そういうことなのです。
そして、もっと驚くべき事実は、通販の注文も、私達の「真剣な」願い事も
宇宙にとっては全く差がない、ということなんです。
さっき書いたように、大きいとか小さいとか、いわゆる「判断」をするのは
いつでも人間だからです。
だから、私たちが願い事をしても、「恐れ」の気持ちから「受け取らない、
受け取ることを認めない」のは、先ほどのような情景くらい「無意味なこと」なのです。

だから「恐れ」自体、実体などはなく、幻想で、まるで意味のないもの
あるいは、私たち魂の存在にとって持ち続けるにはふさわしくない感情であるから
「手放しなさい」と再三言われるのです。
耳にタコができるくらい、ですよね(笑)。
それはつまりそういうことなんです。

自分で注文したのにも関わらず、「恐れ」というまるで実体のないもののために
「受け取る」ことを拒否するのは、二重に矛盾した考え方、行為です。
だから疲れるのです。
つまり、流れに抵抗しているからです。
ふさわしくないことをしているから、なのです。
そのことを『引き寄せの法則”感情に従って幸せの川を下ろう”』では
「源(ソース)と一体になった自然な幸せの流れに逆らって、反対方向を向いて
上流に一生懸命上ろうとするのは、つまり幸せの流れに乗るのを抵抗すること」
と述べています。

「恐れ」の気持ちから抵抗してしまうのは、自然な源(ソース)の流れから
自らを切り離してしまうことだと言っているのです。
つまり、抵抗せず流されていれば、自然に幸せになるのだということです。
そう、私たちは「何もしなくても幸せになる」のが本来の姿なのです。

「何もしない」それは行為がなくなるということでもなく、
「何も考えない」ということでもありません。
「ありのままでいる」ということです。
ありのままとは、「何かをコントロールしようとしない」という意味でもあります。
つまり何もしない、のです。
ただ「受け取る」だけです。
「心配する」ことでさえ、しなくていいことを「している」ことになるのです。

「ありのまま」それは、私たちが「神聖で、永遠で、無限の愛の存在」だということです。
そのままでいればいいのだ、ということです。
何か(判断)をしようとする、ということは、つまり不自然であるから「恐れ」
という実体のないものを生み出して、自分で自分を縛りつけてしまうのです。
幻想に身を委ねていれば、それは実体がないので、落ち着きがなく、
心の平安も得ることは難しいでしょう。
幻想は幻想です。
それに力を与えてしまうのは、他でもない私たち自身です。

そんな時私たちは自分を見失っています。
自分を認めることができません。
だから他の人や出来事に意味を見出そうとし、そこに認めてもらうことによって
自らを認めようとします。
でも、自分を認めていないのに、つまり自分を信じていないのに他の人や出来事の
承認を得たとしても、本当の安心にはつながりません。
自分を信じて認めていないのに、それを代わりに誰かにやってもらおうと
するのは不可能だからです。
だから、いちいち人の反応や出来事の変化に振り回されてしまいます。
それに合わせていくのが精いっぱいだからなのです。
常に承認を得なければならないわけですから。
でも、自分を認めていないのに、本当は他の人、出来事を信用することなど
できないのです。

だから、さらに承認を求めて、虚しい旅を続けることになるのです。
その間は、自分で自分に向って、あれこれと虚しい旅をすることを
正当化し続けることになるでしょう。
その旅のお伴は、「説明」という長くて意味がわかりにくく相手や状況によって
変化するものと、「良いか悪いか」を常に考えることによってしか成り立たない
物事を表面的にみるためだけの「判断」という道具だけでしょう。

その旅は、どこに行こうと自分から自分を遠ざけてしまうだけで
何も生まず、何ももたらしてはくれません。
ただ、疲労するだけ、恐怖するだけ、批判するだけです。
ですからひたすら疲れます。
でも気がつくまでは止めることはできないのです。
しかし、気がつけばいつでも止めることができるのです。
気がつくというのは、自分をしっかり見つめる、ということです。
幻想に縛られている自分は、本来の姿ではないのだと
条件なし、つまり判断なしで受け入れることです。

「判断」は見せかけのものです。
それでは物事の本質を表すことはできません。
判断することをやめなければ、私たちは常に危険にさらされます。
それは自分と人、物事の神聖な側面を見失うということです。
「ただあること」が尊いのだ、という神聖なる真理を曇らせて見えにくくさせ
ごくごく小さな価値観によって、すべての事象から輝きを奪ってしまう。
そして、そのことによって私たちは永遠に真理から遠ざかってしまうのです。

だからニール・ドナルド・ウォルシュは『神より幸せ』の中で
「判断を止めるということは、その瞬間から感謝に移るということだ」
と述べています。
この記述は核心をついているでしょう。

そして「恐れ」の気持ちは「判断しているから」生まれてきます。
「判断」するという「何かをする」ことをしているからです。
起こっていることをありのまま見つめるのではなく、
常に何かの「判断」をしようとすると、物事は滞ります。
あるいはいつも同じ結論にしか到達しません。
ですから結論自体がとても速く決まります。
望んだものが素晴らしいものであればあるほど、ひとは受け取る前に
自分で自分を判断しようとして、その罠にはまります。
その贈り物に自分がふさわしいのかを判断しようとするのです。
そして自分に条件を付けようとします。
ふさわしくなるための条件です。
つまり判断することによって、しなくていいことをしてしまうのです。
そして流れに逆らってしまう。
「愛」から、望んだはずの「贈り物」から遠ざかってしまうのです。

判断をやめる=感謝に移行する
ということは、つまり、「ありのままを受け入れる」ということです。

ここで言う、自分でしかけてしまった「罠」の正体とは「恐れ」なのです。
そして「恐れ」は、「判断」から始まります。
そこから私たちは、物事の本質を見失うのです。
ただ「判断」と「観察」は全く違うものです。
「観察」は単にそのことを、そのまま見て描写するということです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
「観察」は必要な作業です。
しかし「判断」というのは、全ての物事、人の美しさ、神聖な側面を
覆い隠してしまうものです。
大切なことが見えなくなってしまいます。
それによって自分と宇宙、あるいは自分と神とを分離させてしまうのです。
つまり自分から自分を分離させてしまうのです。

私たちは「愛」の存在なのです。
だから「ありのまま」で良いのです。
だから、そのまま、受け取り、楽しみ、愛して生きていくことが本来の姿なのです。
どこにも力を入れる必要なんてない、ましてや求めたものを拒否することなんて
しなくていいのです。
でも、どんなにいいものでも、求めたものだとしても、
勘違いの恐れの気持ちから「拒否」をすれば、
それは「受け入れられて」しまいます。
私たちには「自由意志」が保障されているのですから。
私たちは永遠に自由なのです。

不幸になる自由さえ認められている。
でも、私たちが愛であるなら、自然な姿は「幸福である」状態です。
それ以外は幻想です。
幻想の中にいて、もうそこから出られないと考えているなら、それは私たち自身が
自分で幻想に力を与えているのです。
だから、そっと幻想は解き放ち、静かに見つめてあげればいいと思うのです。

恐れを忘れる日など、なかなか来ないのかもしれません。
でも、「恐れ」も大切な存在です。
それがあるから、私たちは「愛」をより強く感じられるのですし、
「愛」の意味も知るのですから。

私たちは、ただ自分を「思い出せばいい」のだと思います。
自分自身が愛であること、そして他の人も皆、同じ愛であること。
なぜなら、私たちは皆、繋がっているからです。

「明らかにされるものはみな、光となるのです」(エフェソ 5.14)
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by lovingangelsnadia | 2009-05-16 09:36 | エンジェルセラピー

Feel so good!

「気分の良くなることほど重要なことはない」

ベストセラーになった「引き寄せの法則」には、
繰り返し、そのことが書いてあります。
なぜ、気分が良くなることが、そんなに重要なんでしょうか?

それは「喜び」の状態が、人間の本来の自然な姿だから、なのです。
私もそのことがわかるので、一日の中何度もそれを
繰り返し自分の中で意識していて、
ネガティブになりやすいことを転換しています。

例えば、こんなふうに!

朝から雨が降っている。
衣替えのために、たくさん洗濯をしようとしていたが、できそうもない。
それに出かけるつもりだったのも、なんだか億劫になってしまった。
「でも、もしかして、これは家にいた方が楽しいってことかも!」
そう思ったとたん、なんだかワクワクしてきた。
そして、窓辺に座って、しばらく雨が降るのを眺めていたら
屋久島を思い出し、いろいろなことを感じられた。
雨の音って素敵。
雨の匂いも素敵。
久しぶりに雨をしっかりと楽しめた♪


買い物に行く。
食品を買いに行くついでに、スーパーの前の書店で、大好きな
コミックを二冊買おうと思う。
あそこの書店なら”年中無休”だから連休中でもOK。
なのに。。。が~~ん!なんと休み!うそ~!
年中無休って看板に書いてあるじゃん!
「でも、あのコミックを買わなくてよくなったってことは、そのための
お金(約1000円)を別のものに使える!ビールを余分に買っちゃおう!」
いそいそとスーパーに入っていく(笑)。


友人との会話。
友人が言ったことに対して、私は
「〇〇ちゃん、私ね、これって”A”だと思うよ。」
「あら。私は”B”だと思うのだけど」
う~~ん。でも私は確実に”A”だと思ったのだけどな、と思う。
「でも、もしかしてこれって、〇〇ちゃんが私に対して、何も警戒しないで
話をしてくれてるってことかもしれない。
正直に話してくれているんだ!
実際はどうか、なんてことは関係ない。
〇〇ちゃんにはこれを”B”だと言う自由がある」
そして
「そっか。そうだね!」
「うんうん。そうそう、ところで、これって知ってる?」
「え?何それ?知らない!おしえて、おしえて!」
「ふふふ♪」
私達の楽しい会話が続いていく。


娘のダンスの試合に行く。
ちょっと遠いなぁ、面倒だなぁと思うが、試しに東京まで出かけてみる。
一人でのんびり試合を観戦しようと思っていたら、
ちょっと癖があると評判の人が隣にやってきた。
うわぁ~ちょっと・・・、と正直思う。
「でも、こんなに明るく話しかけてきてくれるなんて、楽しい人なのかも!」
あまり何も考えずに、私も受け答えしてみる。
私が打ち解けると、相手も打ち解けてきてくれて、とても楽しく
笑いが絶えない時間になった。
一人で見るより楽しかったな~♪
それに、めったに入ることのない大学に入って中が見られたのは
とってもラッキー♪♪♪


注文した本が届かない。
期日を指定しているのに、何の連絡もない。
問い合わせてもわからないらしくて、ちょっと「?」
「これはもしかして、別の本を読んだ方がいいってことかも!
それか、もしかして本を読むのではなくて、別のことをしたらいいのかも!」
そう思って、突然お風呂掃除を始めた(笑)
ちょっと前から気になっていたのだけれど、きっかけがなくて先延ばしにしていた。
そして夜遅くなって、本が届いた。
宅配便の人がとても丁寧に挨拶してくれて、気持ち良かった。
そしてお風呂もきれいになって、さらに気持ち良い!!!
お風呂上りにさっそく読んでみよう♪


おニューの靴を履いて外出。
いろいろとお店を見て回ろうと思ったのに、靴ずれで足が痛くて・・・。
え~~ん。せっかく横浜まで出てきたのにぃ。
(注・おうち大好きのひきこもりの千鶴は、横浜まで行くのは大イベントです(笑))
どこかで座って休むしかない。
「この際だから、ちょっと早めに夕食にしてしまおう!」
そして大好きなタイ料理の店に。
早い時間だったので、店内はガラガラ。
のんびり、ゆったりと大好きなグリーンカレーを食べて、超幸せ♪
帰りにレジで会計していると、タイ人の店長に話しかけられる。
私が時々一人で楽しそうに食べに来ているのを覚えていたみたい(苦笑)
「レンキュウハ ドコカ イカナイノ?」
「仕事ですよ。店長さんは?」
「ボクモシゴトヨ!ボクイナイト ミセ コマル!」(笑)
そして、次回からは何でも好きな辛さに調整してくれると約束してくれました!
店が暇なために、初めて会話ができて、ラッキー♪
次は激辛タイ料理に挑戦!


楽しいことは楽しいことを、ハッピーなことはハッピーなことを
さらに呼び込んでくれます。
ちょっと気持ちを「良くなる方」に向けるだけで、こんなに毎日の
生活が変わるっていうことを、本当はきっと誰もが知っているはずです。
だから、あとはやってみるだけ!
試してみたら、きっと変わりますよ♪
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by lovingangelsnadia | 2009-05-07 00:54 | 天使のメッセージ