「ほっ」と。キャンペーン

ドリーン・バーチュー博士公認エンジェルセラピープラクティショナー(R)の千鶴が、天使からのメッセージをお届けします。エンジェルリーディングのセッション等については、私のHPをご覧ください♪


by lovingangelsnadia
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”幸せな人”運動

”幸せな人”運動というのを提唱したいと思います!

今日から、
「私は幸せを引き寄せる磁石だ!」と思ってみましょう。

あなたはそう思った瞬間から
「幸せを引き寄せる磁石」に変身します!

これは本当です。
信じてください。
人間の考えることって、とても強力な磁力を持つのです!

私たちは誰もが皆「思考」という強力な磁石を
持っているのですから、それを使わない手はありません。

だから、その磁力を「良い」方向へ使いましょう。

そして
「私は毎日どんどんどんどん幸せを引き寄せるのだ!
私は幸せを引き寄せる磁石なのだ!」
とあらゆる瞬間に思い出して、心の中で確認しましょう。

そして、素敵なことが起こったら
「ほら、やっぱり!私は幸せを引き寄せたんだ!大成功♪♪♪」
そうやって自分をたくさん褒めてあげましょう。
この時、さらにニヤニヤしたり、ニタニタしたり、ニコニコして
ほほ笑んだりすることをプラスすれば
更にその磁力は強くなります!

でも、もし正反対のことが起こっても
減点したり、自分を責めたりしないであげてください。

絶対に減点しないでください!

でも、いいことが起こったらどんどん点数を足してあげてください。
やることはたったこれだけです。

あなたが「私は幸せを引き寄せる磁石」だと思えば
幸せがどんどんあなたにひっついてきます。
たくさんくっついてきます。

それに気がつくように敏感でいてくださいね。

シンプルなことは、とても大切です。
あなたはただ生きているだけで、そこにいるだけで
幸せを引き寄せるのです!

「あなたは幸せを引き寄せる磁石」です!
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by lovingangelsnadia | 2009-06-30 16:07 | エンジェルセラピー

その時までは

もう十年以上も前ですが、私は九州のあるホスピスで
ボランティアとして働いていた時期がありました。

それは、その時期の私自身が自分の存在をこの世から消したいと
思っていたために「死」というものに強く惹かれたからです。
だから、少しでも近づいて知りたいと思っていました。

以前このブログにも書きましたが、結局、私はそこで
逆に「生きる」ことを強く意識することになり、新しい人生を
歩み始めるきっかけをもらったのです。

私がその日担当した初老の男性は、今夜か明日かという
状態にあり、すでに意識はありませんでした。

そして時折、いわゆる断末魔のあえぎで暴れるのを
押さえてドクターを呼ぶのが私の仕事でした。
その仕事は、どう考えても気の滅入るものでした。
半年続けてたその仕事でも、一番抵抗を感じたものでした。

しかも、死の床にあるのにも関わらず、彼にはかけつけて
そばで励ます家族や友人さえいません。
見ず知らずの赤の他人である私が、ただ仕事として
その人の手を握り、歌を歌い、寄り添っているのは
どう考えてもおかしな光景に思えて、それが
いかにも彼の問題がありそうな人となりを表わしているようで、
余計に私を落ち着かない気分にさせるのでした。

更に時折、まったく予測もつかずに断末魔のあえぎで
狂ったように暴れるそのさまは、本当に泣きたくなるくらい怖く、
どう対処していいかわからなくなりました。

でも、与えられた仕事をこなすうち、
手を握り、足をさすり、歌を歌い、寄り添ううちに
いろいろなことがわかってきたような気がしたのです。

死ぬということが、どういうことなのか、
逆に生きるということがどういうことなのか、
それを目の当たりに見せつけられた気がしました。

どうしてこの人はこんなに苦しんでいるんだろう、
なぜこんなことになっているんだろう、
私は何がしたくて、何が知りたくてここに来たのだろう・・・。

そしてとてもシンプルな答えが浮かびました。
それは
「死ぬときまでは生きていなければならない」
ということです。

目の前の骨と皮になり苦痛で歪んだ顔の男性は
更に苦しみにもだえて、息も自力でできません。
でも、彼はまだ生きているのです。
死ぬその瞬間までは、どんなにカッコ悪くても
情けなくても、みじめでも、苦しくても生きていなければならない。

それが生きるということなのかもしれない。

そして、私は果たしてそこまで試してみたといえるのだろうか、
そう考えました。

そう思うと、彼の姿がとても神聖なものに見えました。
彼はまさに今、「生きている」のです。
何も言わずに、ただ横たわっているだけなのに
彼の姿そのものが、生を力強く表現しているのです。

私は思いました。
「ああ、一体何をやっているんだろう、私は・・・。
もっとできることがあるのではないか」

傷ついて諦めようとしていた私を、ただ横たわっているだけの
苦しんでいるだけのこの患者さんが、言葉を発することもなく
体を動かすこともなく、ただ存在しているというだけで
癒してくれたのです。

その日、私には奇跡が起きました。
小さな病室で私は生まれ変わるきっかけをもらったのです。

死の一歩手前にいる、その魂の持つ最後の生の光は
傷ついた一人の人間を立ち直らせるほどの、大きなものでした。

私達の毎日は、どんなに平凡なものであれ、さまざまな出来事が
起こり続けて、飲み込まれそうになることもあります。

例え衝撃的なことがないとは言え、小さな苦しみ、悲しみが
塵のように積もって、いつしか大切な部分を蝕んでしまっていることも
あるかもしれません。

絶望は小さな死です。
でも、死は再生と背中合わせです。
死は生があるから存在するのですし、生は死があるから輝くのです。

だから、そのかけがえのない瞬間を、ひとつひとつ大事にして
もっと丁寧に生きられたら、と思います。
それこそが、重たい肉体を持って存在している意味なのではないかと
私は思っています。

自分の中心に置いておくのに、ふさわしいのは
どんなに外側の世界が荒れ狂おうと、静かで穏やかな秘密の湖のような
平和な心です。

でも何も感じず、感情の振れ幅をただ少なくさせるのは、絶望です。
それは生き生きとした人間のもつ本来のものとはかけ離れています。

感情を楽しみつつ、心の中心を穏やかで平和に保つことは可能です。
それこそが、私たちが探している「理想郷」なのかもしれません。
シャンバラは私達の中にあります。

昨日亡くなったKing of popは、最後に何を見たのでしょう。
(私は彼が大好きでした!)
私が悲しい気持ちになったのは、彼が決して心の平和を見つけ出すことが
できなかったのではないかと思ったからです。

個人的にも親しかったディーバック・チョプラ氏が
「薬じゃないもので痛みに立ち向かうことができるよ」と進言したそうですが
彼には届かなかったようです。

孤独なkingは、シャンバラは自分の外にあり、何かの形で誰からか
もしくは何かものから与えられるのだと考えていたのでしょうか。
それを彼は探していたのでしょうか。

自分の内側を見ることは、時として辛いことです。
でも、そこに本来あるのは、穏やかで平和な世界です。
そして、そこへ行くのは自分で行くしかない。
でも必ず誰かが手を差し伸べて見守り助けてくれます。
私たちは決して一人ではないのです。
例外なく、誰にでもそれは言えることです。
私たちはつながっているのですから。

ありのままを受け入れることで、確実に癒しは起こります。
それが私たち本来の姿です。

最後の瞬間、その時を迎えるまでは、私たちは生きることを選びます。
だから、そのひとつひとつを、より輝かせたい。
そのためにできることをやっていきたい、それを何であれ大切にしたい
そう私は思っています。
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by lovingangelsnadia | 2009-06-27 21:56 | 天使のメッセージ

”夢”は知っている

夢のリーディングを始めて、約1年半くらいになります。
だいぶ以前から夢にとても興味がありました。

でも、巷に出回っているいわゆる「夢占い」の本などを見ても、
なんだか全くピンと来なかったのです。

ある日、別の本を探しに行った書店で、
偶然手に取った夢のリーディングの本に触発され
個人的に研究するようになったのが最初です。

大抵、夢は起きるとすぐ忘れてしまうことが多いのですが、
その頃は、比較的鮮明に覚えていることが多くて、
何か「覚えていること自体」に意味があるような気がして
それを知りたい一心で調べていました。

とにかくびっくりしてしまうのが、その「的確さ」です。
例えば、昼間自分の気持ちをうまくごまかせたとしても
夢は必ず、その奥底にある「本当のこと」を伝えてきます。
ですから、最初私は、そのメッセージを素直には
受け取れませんでした。

「いやいや、そんなことない!」みたいに。
全く、誰に対して反論しているんだか・・・(笑)
でも、顕在意識の私が
「このことに関しては心配していない、大丈夫!」
と言い聞かせていて、とりあえず納得していても
奥底の私=潜在意識が
もしそうではないのなら、
「でも本当は心配なんじゃん!
思いっきり怖がっているよ!」
と指摘してくるのが夢のメッセージなので、起きてから
そのことを受け取り
「そうなんです、本当は私、怖いんです(涙)」って
すぐに認めるのが難しかったりします。

だって、昼間の私、つまり通常の意識レベルでの私は
ある物事について
「全然大丈夫!」と思いこんでいる(し思いたい)わけなのですから
それに関して
「ちゃうちゃう!本当は心配やねん!」
って夢を通して自分自身に言われても
すぐに素直にはなれません。
(なぜ関西弁?(笑))

もちろん逆もたくさんあります。
普通の意識レベルでは何かのことを、ひどく心配していても
夢を通して、自分が意外とどっしり構えていて
ちゃんと状況を把握し、安心しているのだということに
気がつかせてくれて、さらに安心できることもあります。

人間は自分自身をごまかすのがとてもうまいです。
普段は頭で考えて行動、思考をしていて、それを最優先に
していることが多いからです。
だから自分自身の「本当の気持ち」というのを知ることが
一番難しいのかもしれません。

でも、夢はその部分をかなり率直に、というか
手加減なく、あるいは情け容赦なく(笑)指摘してくるのです。

ですから夢を通して、私たちは自分自身をより深く
知ることができるのです。

それはなぜなのでしょうか。

起きている時の人間は、たいてい論理的に考えて行動したり
思考したりしていて、そちらの機能を継続させることや
周囲の人や出来事に合わせることに集中しています。

でも、夢を見ている時の人間は、非常にリラックスしていて
昼間ガチガチに理論武装していたとしても、その鎧が完全に
取り除かれ、いわゆる心の状態がむき出しになっているから
ベールに包まれた自分の本心が表れてくるからです。

ですから夢を見ている時の状態の方が、実は人間本来の姿、
あるいは魂の姿なのだとも言えます。
だから夢は超意識、宇宙意識ともつながっています。
根源的なものにアクセスしている状態なのです。

ですから、偉大な先人たちは夢からヒントを得て
たくさんの素晴らしい発見や発明をしてきたのですね。

つまり夢を見ているのが、私達の本来の姿であるなら
例え夢を通して何かメッセージが来た時に
それがただちに顕在意識では受け取れないようなことであっても
実は全く悲観するようなことでもないし、もちろん恐れることでも
ないわけなんです。

そして、夢からのメッセージと、普段の自分の意識との
差がなくなってくれば、それは「自分の気持ちに正直に
魂に従って生きている」という、良い証明にもなります。

また、夢は普段の私たちが気がつくことが少ない
私たちの霊的な成長のレベルについても教えてくれます。
私たちがいま、どんな状態なのか、課題は何なのか、
あるいは何をクリアしたのか、これから何が待っているのか・・・。

夢でそれを「体験」するのですから、これは非常にエキサイティングで
具体的でわかりやすいものになります。

更に、とてもうれしいことに、夢はこちらが近寄っていけば
どんどんあちらからも近づいて来てたくさんのメッセージをくれるのです。
私も夢のリーディングを本格的に始めて、しばらくすると
夢の中で夢からメッセージをもらいました。

それは「ありがとう!」
の文字がたくさん書いてある手紙でした。

正直、この手紙は若干怖かったりもしたのですが(苦笑)
でも、なんだかとてもうれしくて、リーディングをさらに進めて
行こうと思えました。

スピリチュアルなことをお勉強されている皆さんも、それから
そうではない皆さんも、ぜひ、ご自分自身を知るために
夢のリーディングを始めてみてください。

これは他のリーディングと違って、相手も必要ないですし
自分自身を自分自身が見てあげられる、とてもよいツールです。

その際に手助けしてくれるものとして私のお勧めは、
このブログの右横に掲載してある
ベティー・ベザーズさんの「ドリーム・ブック」です。
ベティーさんはすでに故人ですが、非常に的確なチャネリング能力と
そして偏りなく、人格的にも安定した方らしく
本の中身全体が、夢だけでなく瞑想やチャクラについてもかなりの
ページを割くなど、幅広い内容を網羅していて秀逸です。
ぜひ活用なさってください。
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by lovingangelsnadia | 2009-06-24 22:05 | 天使のメッセージ

復活!!!

コメント欄が復活しました!!!
トラックバックも受け付けできます♪
皆さまからのコメントを楽しみにしていまーーす!
ちゃんとレスしますので、お気軽に書いてくださいね♪

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
(でも!いたずら書きしちゃいやいやっ!(笑))

皆さまにたくさんの愛と光が降り注ぎますように・・・!!!
千鶴
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by lovingangelsnadia | 2009-06-21 21:16 | お知らせ
もしも、「世界がふたつに分かれている」
もしくは、世界は様々なふたつの側面を持っていて、
それぞれに名前がついているとしたら・・・。

天国と地獄
あの世とこの世
上と下
お金持ちと貧乏

本当はこんなふうに、もうすでに私たちはある一定のラインで
世界をふたつに分けて考える癖がついている。

良いことと悪いこと
正しいことと間違っていること
合法的と非合法的

音楽と音楽的でないもの
猫とそれ以外・・・(?)

そしてもしも本当に「ふたつだけ」だったら?
いやいや、そんなことはない。でも、
シンプル過ぎる分類の仕方だとわかっていても、
「ふたつある」
「ふたつに分かれている」
もとい
「ふたつしかない」
と考えるとしたら・・・。
もしかすると、それで逆にクリアになるものがあるかもしれない。

例えば、

見えるものと見えないもの

その違いはなんだろう、と常に考えている。
私にとってそれは、信じられることと信じられないこと、
それに深く関わっている。

だからこの場合、どこまで行っても主語は
「私」であり、つまり「私が」信じることと、信じられないこと
という意味になる。

私が見えていることが、
他の人にとっての真実=信じられること
ではなかったとしても、それが私に与える影響は少ない。

ただ、私がひとつ、自分の中で厳密に決めていることは
私が私を取り巻く現実を受け入れるという作業。
だから私は私の現実をそのまま愛するために、もしかすると
見えないものを信じることをしているのかもしれない。

見えるものを愛するために見えないものを受け入れる。

自分自身が自分自身をどう思うのか、
どんな思考をしているのかということが、その人の本質だと思う。
着ている服や、職業でもなく、住んでいる場所でもなく
何を考えているかが、その人そのものなのだと。

だけれども、(だからこそ?)外側から見たら、きっといろいろな
形容詞をつけて見られることがあるのだとも思う。

パッケージはパッケージ。
表紙は表紙。だけどそこが一番目立つし、とりあえずは手に取って
感触を確かめてみることができるのは、そこだけかもしれないから。

だから私は自分自身を、「楽観的なニューエイジの精神主義者」
としてとらえることもできる。
時として、試しにそんなことも考えてみたりしている。

だから、同じような趣旨のことを、誰かに指摘されたとしても
そのことで私の中で何かが変化することは、おそらくない。

そして、もしも「ふたつある」という仮説に基づいて考えるなら
もう一方の世界では、私は「悲観的な時代遅れの唯物論者」かもしれない。
そして、私はそれもいいな、と思う。
どっちだっていい、名前なんて。

そして、私を取り巻く世界が、ふたつに分かれているなら、
それは「私自身」の中にもあてはめることができるかもしれない。

私の中にはふたつの分かれた世界があると。
そんな風に決めてしまうのは、強引で幼稚な考え方だとしても
だからこそ、私はそこを「どうしたいのか」を考えたい。
シンプルにするためにそれを敢えて使いたいのだ。

つまり自分が自分であるというのはどういうことなのか。
自分の中のふたつの世界に橋を架けることはできるのか?
それが私にはできているのか?

私の中のふたつの世界を、仲直りさせることはできるのだろうか、と。

もしそれが可能なら、
(あるいは幸運にももうそのことはすでに実行されているのなら)
それはどういう手段や方法を用いて行われているのだろう。

もしかすると、これから先考えが変わるかもしれないが
その唯一の手段とは「意志」なのではないかと思っている。

ふたつの世界が右と左に分かれていて、その中心を
まるで綱渡りみたいに、棒でバランスを取りながら進んでいるのだとしたら、
その中心にいるのは自分の本質で、バランスを取っているのは
「意志」なのではないかと。

中心はあくまでも中心であるので、ブレないのだけれど
バランスを取るための棒は、実はとてもブレやすくて、そのせいで
どちらか一方に傾くこともある。
でも、うまく使えば、もちろんバランスを取ってくれるのは、その棒だ。

現実は厳しい?
もちろんそう。
でもそうばかりではない。

眠れない夜に強いお酒を飲むみたいに、天使を使うつもりはない。
一時のなぐさめを与えてくれるだけなら、天使でなくてもいい。
もっともっと現実的で耽美的な楽しみで充分だ。

天使や見えない存在は、現実を楽しむことを教えてくれるもののはず。
現実を忘れさせてくれる、テーマパークのアトラクションとは違う。
「ある」ものを「ない」と感じさせるのは不自然だからだ。
「ある」ものをそのまま「ある」と受け止めた時に本当の「癒し」は起こる。

現実は厳しい?
もちろんそう。

だけど、現実はやさしい。
どんな人にも朝は来るし、陽は降り注ぐ。

信じるか信じないかは別として、見えない世界は存在する。
(もしも世界がふたつに分かれているなら)
そして、それはバランスを取ることで、本当に見えてくるものだと思う。

見えない存在は、私達を見える世界から切り離すためにあるのではなく
ただ、そこに歴然としてある。
ただ、イコールの存在として、見えない、見える、はどちらも存在している。

どちらかに傾いてしまうとしたら、それは私たちが自分の意志でやっていること。
傾くということはバランスを欠いている、ということ。

現実を忘れたくなる日は誰にでもある。
でも現実を忘れる必要なんて、たぶんない。

現実を愛しているから、私は非現実を愛する。
非現実を愛するから、現実を愛する。

ふたつあるならふたつなら
どちらもそのままでいい。
どちらとも関わることを選び続けたい。

私の尊敬する人が言っていた。
「世界はバランスでできている。バランスが崩れたとき問題は起こる」

だったら、私はどっちの世界も楽しみつつ、棒をしっかり持ちながら
鼻歌交じりに進んで行けたらいいな、と思っている。
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by lovingangelsnadia | 2009-06-19 19:11 | エンジェルセラピー

扉の向こうにあるもの


人間はどこから来てどこへ行くのでしょう。
私は一体誰なのでしょう。
そしてあなたは誰ですか?

自分の内側に入っていく旅に終わりはなく、
時には全く先が見えず、ただただ荒涼とした砂漠に
ひとりたたずんでいるようにさえ思える時があります。

あるいは無数の扉が目の前にあって
自分はどの扉に手をかければいいのかわからない。
本当にその扉で「正しい」のか、
自分にはその扉を開けることはできるのか・・・?

一体どこに続くのか。

怖さを感じる理由は、扉の向こうには
暖かい安らぎの世界が広がっているのではなく、もっと冷徹で容赦ない
自分を食い尽くしてしまうまるで怪物のような「真実」が、
ぽっかり口を開けて獲物を狙うように待っているのではないか、
と考えるから。

多くの人にとって、常にポジティブでいることはたやすいことではなく、
見当もつかないようなことをいきなり肯定するのは
目をつむって走るようなものなのかもしれません。

「怖い」と感じるものが、消えてしまうことなどあり得ないのかもしれない。
でも、無数ある扉のどれかに、ちょっとだけ手をかけて、
こっそり押してみるくらいはできるのかもしれない。

そして気の弱いねずみが腹ぺこ猫の居場所を確かめるかのように、
ちらっと扉の中を垣間見るくらいなら、試めせるかもしれない。
それくらいの高さのハードルなら、きっともっとたくさんの人が
純粋に超えてみたいと思っているのではないかと。

扉の向こうになにがあるのかなんて、誰にもわかりません。
わかっていたらつまらない。
わからないから怖い。

だけど、例え目をつむって走ったとしても、そこが走れる場所なら
走りたいと思うなら、転んでしまったり、コースを外れたりしても
少しばかり痛い思いをして怪我に耐えるくらいのことで、
実は想像しているよりも、それはずっと「簡単」なことなのかもしれません。

「死ななきゃいいんだ」
そう腹をくくって、開き直って生きてみるのも悪くはないです。
すごく視界が開けるし、安心できます。
それだけで扉の向うの未知の世界に恐怖することは
かなり減らせるかもしれない。

そんなことを考えながら、今日も新しい扉に手をかけてみるのです。
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by lovingangelsnadia | 2009-06-16 18:04 | 天使のメッセージ

キャベツとわたし


 キャベツばかり食べている。

 それはなぜ?

 いつも行くスーパーの入り口にど~~んとイチオシコーナーがあり
 最近そこにはキャベツばかりが置いてあるから。
 キャベツが私に話しかけてくるように感じるから、つい買ってしまう。

 「ほらほら、ボクを買って帰らないと損するよん♪
 甘いよ、やわらかいよ、しかも融通が利くよん♪」
 
 確かに・・・。
 旬だからおいしいし、新鮮だし、安い。
 時には浮気して、キュウリとかレタスとか買おうと思っても、前者に比べて
 圧倒的に料理の幅が広いキャベツを結局は買うことに。
 どう考えてもキャベツは融通が利く。

 そのせいで、この一か月私は少なくとも五個は食べているはず。
 まさに「キャベツばかり」の食生活。

 なので、いろいろなメニューを試しています。
 以前は油揚げと一緒にお味噌汁に入れたり、野菜炒めにしたり
 といったスタンダードな料理しかしなかったけれど
 こんなに毎日キャベツを食べるためには、
 とにかくレシピを増やさなければ!

 ①ナムル風
   レンジでチンしてやわらかくなったキャベツに塩こしょうして
   ごま油を少しかける

 ②酢の物風
   (お花の喜生先生のレシピ)
   細かく切ったキャベツとシーチキンを混ぜて、酢も入れて和える
   最後に醤油をたらす

 ③野菜炒めだけどただの野菜炒めじゃないよ?風
   キャベツを適当な細かい大きさに切って、フライパンで炒める
   そこへじゃこを入れて、最後には溶き卵をいれて混ぜ合わせる
   塩、こしょうのみ

 
 その他にも、千切りにしてトマトやキュウリと一緒にパンに挟むとか
 生のままぴらっとはがして、味噌などにつけて食べるとか・・・

 そう言えば、うちの母は昔、とんかつを揚げると必ずつけあわせの
 キャベツの千切りには、大葉も同じように千切りにして出してくれたな。
 「こっちの方がさっぱりするから~」という理由で。

 だいぶ前に読んだ藤原伊織の「テロリストのパラソル」という小説には
 すごくおいしそうなホットドックの作り方が書いてありました。
 あれは確か、千切りにしたキャベツをウィンナーと一緒にバターで
 炒めてから、パンに挟んでオーブントースターに入れてました。
 話の内容は忘れてしまったけど、そこだけは記憶に残ってます。
 
 こう考えてみると、キャベツは絶対的に「添え物」としての役割が多い。
 ロールキャベツだって、結局は中に入っている「ジューシーなお肉」
 がメインなわけだし。

 でも、とりあえず、なんだか最近の私はキャベツを主役に大抜擢して
 あげなければいけないような気分になってる!

 それほどまでに私とキャベツの中は、今とても親密なものなのです。

 そして、昨日はとうとうキャベツをカレーに入れてしまった!
 来るところまで来た感がある・・・。
 サラサラタイプの、カレー粉から自分で炒めて作るルーのセットを
 頂いていたがあったので、それを作る際に挑戦してみた。

 豚肉を細めに切って、キャベツも同じように切って炒めて
 カレー粉と一緒に煮込んでみたら・・・、
 これが意外や意外、おいしかった♪

 激辛カレーのセットだったので、キャベツの水分があることが
 調整してくれたのかもしれないな、と。

 ちなみに、通常おいしいキャベツを買う目安は、「なるべく重いもの」
 とされているけれど、春キャベツに限っては「軽いもの」の方が
 葉が少ない分、甘味がつまっていておいしいのだそう。

 ここでまたまた思い出したこと。
 村上春樹の小説の登場人物がこんなことを言っていた。
 
 「クールになりたい時は、真夏の冷蔵庫の中にある冷えたキュウリを思い出すとよい」

 なるほど。
 その情景は確かに「クールな」気分になれるかも。
 でもうちの冷蔵庫には今はキャベツしか入ってないな~。
 さらに、そのキャベツを思い出しても、ちょっとクールな気分にはなれそうもない。
 
 今の私は
 「梅雨の冷蔵庫の中にあるリード野菜保存用バッグに包まれた春キャベツ」
 を思い出すと、
 「次は何にしようか!」と
 熱い気持ちがこみ上げてきてしまうから・・・。

 
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by lovingangelsnadia | 2009-06-10 23:00 | 料理

決めているのは・・・?

毎日をどんな気持ちで過ごすかということはとても重要です。
楽しい気持ちか、悲しい気持ちか、苦しみの中なのか、
喜びの中なのか。

でも、それは自分では決められない、選べないことだと
私たちは思いこんでしまっています。
果たして本当にそうでしょうか?

先日、大学2年になる娘が、ちょっとしたご縁があり、とても有名な
本田健さんのセミナーのスタッフとしてアルバイトをさせてもらってきました。

本田健さんは、お金やビジネスに関するセミナーを開催していますが、
一番有名なのは著作「ユダヤ人大富豪の教え」の成功だと思います。
この本は、自分探しをしている大学生の男の子が単身アメリカに渡り、
メンターに出会い、お金やビジネスに関する考え方を学び、そこから
人間としても大きく成長する、という内容です。
読みやすく大人から学生まで幅広く楽しめるのですが、内容が奥深く
また最後には感動してしまうというところが好評で、この本は世界の数十カ国で
翻訳出版され、多くの人がお金との健全な関わり方を学んでいます。

その他、主にお金との関わり方やビジネスを基礎とした自己啓発関連の著作や
翻訳書が多くあり、その数はすでに300万部に達しているのだそうです。
一方ビジネスコンサルタントとしても有名で、多くの顧客を抱えています。
ご存知の方も多いでしょう。

今回、幸運にも娘がスタッフとして参加させて頂いたセミナーは、
なんと参加者が約1000名だったそうで、本田健さん人気のすごさがわかります。

残念ながら私は参加しなかったのですが、娘からある報告を受けました。
セミナーの中での、本田健さんのある発言に非常に感銘を受けた、
ということでした。それは

「私は毎日、最高の人に会っているから落ち込まない」

というものでした。

娘いわく
「健さん、すげ~(笑)」

いやあ、本当に健さん、すげ~(笑)
さすが、ですね。

で、私はここで考えたのです。
確かに健さんの立場なら、それこそ各界でも有名な人や、いわゆる”セレブ”に
毎日会うのは普通のことなのかもしれません。
だけど、健さんはそのことだけを指して「最高の人」と言っているのでしょうか。

私はそうは思いません。
私は健さんが「毎日最高の人と会う」と決めているから、そうなっているのだと
思うのです。
だから相手がどんな人であれ、会う人皆が「最高の人」に「なる」のだと。

私も健さんには遠く及びませんが、毎朝こうアファメーション(宣言)します。
「私が今日関わる人は、皆素晴らしい人だ!」
そして、その最高の気分を味わって、それからニコニコ(ニヤニヤ?)
しながらベッドから出ます。

そういう風にし始めてから気がついたことがあります。

「どんな出来事も、どんな人との出会いも、
すべてが私にインスピレーションを与えてくれるものなのだ」

ということです。

人間生きていれば、例え家から一歩も出ずに、誰にも会わずに過ごしたとしても
いろいろなことを体験しながら毎日生活しています。

私だって「合わないな」と感じる人や
「困ったな」と思う出来事に遭遇します。
もちろん、私に対して反感を持っている人と接することもあります。
そして私自身が好きになれないな、と思う人と会うこともあります。
一瞬どうしていいかわからなくなりそうな出来事も起こります。

だけど、それがどんなにひどいことでも、大変そうなことでも
悲しいことでも、
必ず私に何かインスピレーションを与えてくれるのです。
そのことに気が付いてからは、びっくりしたり自分を見失ったりはしなくなりました。

そして、好きになれない人や出来事でも、私はそのまま受け入れることにしました。
ただただそのまま受け入れます。
何の判断も分析もしません。
目をそむけたりもしません。
ただ、淡々と受け入れます。
でも無理にそのことや人を好きになろうと頑張ることはしません。
そうしたら不思議に嫌いな人がいなくなってしまったんです。
目の前から消えてしまった、というよりも、そういう人が私の経験のなかに
存在しなくなった、という表現が近いです。

私、こう見えても、以前は結構(かなり)ひとの好き嫌いが激しくて、
大変だったのですけどね(笑)
いろんな人にだいぶ迷惑かけました・・・(汗)
この場を借りて「ごめんなさい」。

だから
「最高の人」かどうかを決めているのは、他でもない自分自身だと思うのです。
何が最高か、といったことも含めて、です。

ちなみに本田健さんのスタッフをやっている学生は、皆が有名大学の
生徒さんばかりではありません。
娘も含めていわゆる”普通の子”ばかりです。
そしてオフィスのスタッフは皆とても仲良しで、誰にでもフレンドリーです。
健さん自身もそういう方だと聞いています。

もし、何かしら「世間のものさし」のようなもの(学歴、収入など)で
健さんが人を「最高かどうか」決めていたら、少なくとも普通の人達があれ程
楽しく集まる職場にはならないのではないかしら、と思います。

そして私自身を振り返った時、もしかすると人に話したら
「それはやばいんじゃない???」と言われるような出来事でも
「え?そんなことあるの?」みたいな出会いでも、私にとっては
一日一日が「神の日」と決めているので、
どんな日でも私にとっては「神聖な一日」だと言えます。
そしてどんな人でも「素晴らしい人!」なんです。

相手がしかめっ面したり、私に対して怒っていたりしても、私は
そこから何かインスピレーションをもらいます。
あるいは計画していたことが予想通りに運ばなくても、それはまた別の何かを
与えてくれるチャンスになるのです。
だから、どんな一日でも、どんな出会いでも、それは
私にとって「素晴らしい」のです!
それは私がそう「決めた」から、です。
なぜなら、単純に言ってしまえば
「そっちの方がいいから(笑)」です。

でも、反対にそれを「最悪の出来事」「最悪の人」としてしまうのは
他でもない、自分自身です。

もし今、私たちが、いわゆる「不本意な状況」にいると感じているのなら
それは、そのことを自分で選択しているからなのです。
「悪い状況だ」と決めているのは自分です。

それとも、これは「次へのチャンス」あるいは
「気付きをくれた大切な機会」ととらえますか?

どちらがいいでしょう?

本田健さんは、確かにすごい人です。
でも彼がすごいとしたら、それは常に一定だから。
常に「毎日最高の人と会う」と決めて継続しているから、だと私は思うのです。
だけど決して彼は特別な人ではないのです。
それこそ
どうなりたいか、どうありたいかは
自分で「決める」ことなのですものね。

そうしたら、きっと誰もが人生のそこここに存在する、最高の出来事、
最高の人に気がつくでしょう。
だって決めているのは自分なのですから!ねっ!
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by lovingangelsnadia | 2009-06-09 13:55 | エンジェルセラピー
幼い頃に親しんだ世界を大人になると忘れてしまうのは
自然な流れなのかもしれません。
でも何かのきっかけで、その「昔住んでいた世界」を垣間見て
そこからまた新しいものを生み出すことはできます。

『パパの電話を待ちながら』
(講談社 ジャンニ・ロダーリ 著/内田洋子 訳)

国中を旅しながらセールスの仕事をしているパパが
留守がちなのを寂しがる幼い娘に
「毎晩9時になったら家に電話して物語を聞かせてあげるね」
と約束して出かけます。
この本は、その電話で父から娘に語り聞かせた話を集めた、
という構成になっています。
作者のロダーリは20世紀イタリアを代表する児童文学者。
イタリアでは「文字が読めるようになったら、まず読む」のが、
このロダーリの本と言われているそうです。

最初に日本で翻訳出版されたのが約40年も前になるこの本に、
登場するのは、ミニミニサイズの女の子、
ひとのくしゃみの数を数えるおばさん、
出かけるたびに体の一部分を無くしてしまう男の子、
おかしな国ばかりに行ってしまう偉大なる旅行家。
回転木馬やアイスクリームのおうち、チョコレートでできた道路
どこかに行ってしまった鼻・・・。

私はこの素敵なファンタジーを読んでいて思い出しました。
それは
自分の「子供の頃の記憶」です。

スウェーデンの児童文学「やかまし村」シリーズに夢中になって、
本を目の前にして何時間でも空想にふけったこと、
近所の酒屋の地下にあった酒蔵でひとり遊んだこと、
人形に名前をつけて、ごっこ遊びをしていたこと。

「やかまし村」は物語上の村で、家が三軒しかありません。
そのかわいい家々や、そこの家族の微笑ましい挿絵が
シリーズどこにでも、必ず見開きで載っています。
どこかの田舎にあるという「やかまし村」の、その挿絵を眺めては
子供の私は自分なりに登場人物を動かしたり、
あるいはその中に自分自身を登場させたり、
新しいエピソードを作っては楽しんでいました。

また、私の実家の近所で幼馴染の住む酒屋の地下には、
一年中同じ温度で保たれている酒蔵があり、
もちろん、子供だけで入ってはいけないことになっていたのですが
よく潜り込んでは一人で遊んでいました。
たぶんやっていたのは「スパイごっこ」だったと思います(笑)。
遠くの方に聞こえるくぐもった友達の声や、車の音、
夏でもひんやりとした土の壁の感触を覚えています。

そんなふうに、空想にふけってばかりの私の子供時代でした。

そして、大人になったその後。
想像して遊ぶことはいつの間にかなくなり、「考える」ことを
とても大切に、あるいはそれだけを中心にして生活するようになりました。
でも、私は自分の子供たちへの絵本の読み聞かせを通して
忘れてしまった「想像の世界」に再び触れる機会を得ました。

子供たちは不思議な話が大好きです。
言葉遊び、オチのない話、意外な展開、見たこともないような世界や
生き物、そして場所。

でも私には当時、それらの話は退屈だったのです。
どうして子供たちが面白がって何度も読んでほしいとせがむのか
よくわかりませんでした。
毎晩寝る前に「三冊までね」と決めていたのですが
「もっともっと!!!」と要求されて、同じ本を読み返したり、
結局は五冊くらい読むのが日課でした。

でも、ほとんどの本が何回読んでも、その時の私にはおもしろいとは
感じられなかったのです。
そして、私がいいと思って選んだいわゆる「勧善懲悪もの」に
子供たちはそんなに関心を示してはくれません。

逆に、何度もリクエストされるのは、繰り返しおかしなフレーズが登場する
言葉遊びの本や、オチがなかったり、展開が奇想天外な
いわゆる不思議な話ばかりです。

その頃の私は、子供たちと一緒に「不思議な世界」に入って行けませんでした。
いつの間にか想像することを楽しめなくなっていたのです。

今思えば当時の私は、生活に追われ自分らしくない生き方をしていました。
結果を出すことがすべてで、プロセスを楽しむ余裕はなかったですし、
そんな選択肢があることにさえ気が付きませんでした。
だから「オチのない話」を楽しむことはできません。
「”不思議なこと”なんて、何の役にも立たない」
そう思っていたのかもしれません。

いつから「オチ」ばかりを求めるようになったのでしょうか。
子供たちが楽しんでいるのに、その横で楽しめない私。
その差はどこで出来てしまったのでしょうか。

きっと目の前の出来事、物質的な事柄ばかりに
心を奪われてしまう状態が長く続いたためでしょう。

でも、何もないところから、あるいはほんのちょっとの楽しいことから
子供のころの私や、目の前で読み聞かせをせがむ私の子供たちを
無限に広がる世界に連れて行ってくれたのは
まぎれもない、内なる「想像力」だったはずなのです。

想像力=心を広げてくれる力

不思議な話は、想像力を使ってたくさん考えるためのチャンスを
与えてくれます。
「どうして?」
「なぜ?」
「このあとどうなるの?」

次から次へとどんどん新しい思いや考えが浮かんできます。
「あれかな」
「もしかして、これかな」
「いやいや、こっちかもしれない」

そのことが心の中に、とても大きなスペースを作ってくれます。

そのスペースがつまり心の余裕ということ。
それはとてもとても大切なスペースです。
だから大人になっても、そのぶん心に幅があるから
自分に選択肢を多く与えてあげられるのだと思うのです。
一旦出来たそのスペースは、決してなくなることはないのですから。

だから、幼い頃に信じていたサンタクロースの存在を、
大きくなってバカにするようになったとしても、そのサンタクロースのいた
心の中のスペースは、そのまま残されるのです。

それは目の前のことだけに左右されない
そのもっと向う側にあるもの、
見えないもの、かたちにならないものや
他の可能性を考え模索する力につながると思うのです。

それが
「生きるための知恵」に繋がるのかもしれません。

「こういう本を得た子供は”心が丈夫”になったことだろう」
この本の帯で作家の江國香織さんがそう書いておられますが
本当にその通りだと思います。

子供の頃のこういった物語との出会いは、かけがえのないものです。
私が見えないものを信じることができるのは、きっと
たくさんの想像力をかきたてられる体験をしてきたからです。
例え私が離れてしまうことがあっても、そのことが
「楽しむことができる場所」へと、また連れ戻してくれるのです。

でも、大人になってからでも、こういうことに関心を持てば
遅すぎるということはないのではないか、と私は今思っています。

楽しむこと、想像力を広げることは、いつだって始められる。
心を広くすることに、遅すぎるということはないのではないでしょうか。

その対象はなんでもいいのです。
今からサンタクロースを信じることを始めたっていいのです!
それはとっても素敵なことです。
もちろん、天使だったりするかもしれませんし、こういった本だったり
音楽や絵画だったり、スポーツをすることから感じられるものだったりすること
だってあるでしょう。

そうすることで、私達はより多くのことに気がつくことができるのです。
世界が変わり、新しくなるのです。
それは心が広がるから・・・。

この本を私にご紹介してくださったのは、講談社のIさんです。
Iさんは、親子二代に渡って、このロダーリの作品の刊行に立ち会われた
編集者です。
Iさんにとって、この本を再び世に送り出すことが、編集のお仕事を
志すきっかけだったそうです。
ここには夢を信じて進んで来られた、Iさんの情熱もたくさんつまっています。
私にいろいろなことを思い出させてくれたこの本を
出版してくださったことと、私に紹介してくださったことに
この場を借りて、心からの感謝をお伝えします。
Iさん、本当にありがとうございました!


最後に・・・。
子供を、平和を愛したロダーリが、この作品の中で
「ストックホルムを買った男の話」を書いています。
その中から、素敵な一節をご紹介いたしましょう。
この話を読んで私は、
私たちは誰もがその内なる力によって物語をつくっているのだと
ロダーリが言ってくれているような気がしました。

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”ストックホルムの町を買う”

その男は散髪屋でした。
思いもかけない破格の条件で、ある男から「ストックホルム」の街を
買い取ることができました。
その幸運さに、我ながら「得な買い物をしたものだ!」と
感心しています。
でも、街を破格のお得さで買い取った、その男は本当に「お得」な
買いものをしたと言えるのでしょうか?

「ところがそれは大間違いでした。
お買い得どころか、高すぎる買い物でした。
世界は、この世に生まれてくるすべての子どもたちのものであり、
手にするためにはお金なんかいらないからです。
それぞれが腕まくりをし努力して、手を伸ばせば、
自分でつかめるものなのですから」

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by lovingangelsnadia | 2009-06-04 12:30 | 天使のメッセージ